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2006年4月

奈良へ(8):阿修羅に会いに

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桜の散る吉城川を眺めながら東大寺境内を出る。
めざすは興福寺国宝館。
途中の氷室神社も桜でいっぱいだ。

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興福寺の国宝館に入る。ここに来るのは何度目だろうか。

入り口から入って順に展示物を見る。
リアリティ溢れる金剛力士像のところに来る頃には、もう気が急っている。
その隣が、八部衆の並ぶガラスケースであり、その中央に阿修羅が立っているのだ。
八部衆とはもともとは古代インドの八神であり、仏教に取り込まれて仏法を守護する神となったものだ。

八部衆のガラスケースまで来た。そこまで来てもまだ阿修羅を目に入れないよう順番に見ていく。

大きな目を見開き、大きな口でうなりをあげるような異形の顔の鳩槃茶(くばんだ)。
くちばしをもち、斜め横を向いて何かを凝視する迦楼羅(かるら)。
あごひげを蓄えた渋めの畢婆迦羅(ひばから)。
皆、いい表情をしている。

そして、その隣がいよいよ阿修羅だ。
3つの顔と6本の腕を持つ。
うち2本の手は胸の前で合掌し、他の2本は宙に捧げている。いまは何も持っていないが本来はこの手は日輪と月輪を持つ。

中央の顔は眉根を寄せて、目を大きく見開いてまっすぐ正面を見据えている。
少年のような少女のような憂いをふくんだ阿修羅のまなざし。
純粋で無垢な目をしている。この目を見ていると切なくなってくる。
このまなざしは何を見据えているのか。

仏教伝承では、阿修羅は須弥山の北に住み、帝釈天と戦い続けたとされる。
戦いの神である。
どうしてその阿修羅がこんなに静かな表情を見せているのだろう。

この八部衆は、光明皇后が母、橘三千代の菩提を弔うために建立した西金堂の本尊、釈迦三尊の周囲を取り囲む眷属として造られた。その造仏を指揮したのが将軍万福で、百済系の渡来人であるとされる。

このまなざしは、将軍万福の祖国を思う気持ちを投影しているのだろうか。
あるいは、光明皇后の希望だったのかもしれない。

聖武天皇の奥さんであった光明皇后は施薬院を置き、自らの財によって薬草を集めて、病者に施し、また悲田院で貧窮者の救済にあたり、深く仏教に帰依した。
八部衆が皆、童顔で穏やかな顔をしているのは、光明皇后のやさしさの優しさの反映とも思われる。

その近くには天燈鬼、竜燈鬼が置かれる。
こちらはツレのお気に入りだ。
小さな鬼が肩で灯籠を担ぐ天燈鬼、頭の上に灯籠を載せてちょっとおどけた顔をしている竜燈鬼。
この鬼の表情がなかなかいい。

しかし、どうしても目は阿修羅の方に行ってしまう。
阿修羅のまなざしがどうしても気になってしまうのだ。

いつまでもいるわけにもいかないので、後ろ髪を引かれる思いで国宝館をあとにした。

興福寺国宝館

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奈良へ(7):南大門

道はやがて大仏殿に伸びる参道に行き着いた。
ここはやはり人が多くてにぎやかだ。
鹿せんべいを持った子供らが鹿に追いかけられ、それを興味深そうに外国人が眺めていたりする。
あれっ、脇でやっていた工事で使われていた小型ユンボをじっと見ている外国人もいるぞ。

この参道を巨大な南大門が覆いかぶさるようにして立っている。
この門には向かい合わせに二体の金剛力士像が配置されている。口を開いている阿像と口を閉じる吽像だ。
この像は運慶、快慶ら4人の大仏師と12人の小仏師らの手によってわずか69日で造られたというものだ。父・康慶のあとを継いで慶派仏所の責任者となっていた運慶は、このとき総指揮を取った。
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運慶の現存する最古の作品である大日如来像が奈良・円成寺に残されている。
若々しくはつらつとした印象を与えるこの像は、当時20代だった運慶が早くから非凡な才能を発揮していたことをうかがわせる。そして、その像には運慶の名が記されている。仏像に作者の名を残すことは当時、珍しく早くから運慶が仏像を単なる信仰の対象ではなく芸術的要素も見出していたことをにおわせる。

そして、老成した運慶は、今度は工房の総責任者として南大門に巨大な金剛力士像を建立した。
ただ大きいだけでなく造詣的にも非常に優れた像を。

改めてこの像を見上げてみると本当に大きい。
初めに小さな雛形を造り、それをそれぞれパーツごとに拡大して分担して造ったのだという。
それにしてもこんな巨大なものをよく69日で造ったものだと思う。

南大門を見上げる。
頭の中のイメージではもっと重厚で無骨だと思っていたが、いま改めて眺めていると意外なほどに繊細で軽やかだ。
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平重衡によって南都が炎上したのは治承4年(1180)12月28日のことだった。このときに東大寺はほとんどの堂宇を失った。
この再建に奔走したのが重源という人物だ。当時の中国である宋に三度行ったというこの人は宋の様式を大胆に取り込んだ。
南大門もその様式に従って建てられた。大仏様(だいぶつよう)と呼ばれる様式によるこの門は、雲のように幾重にも重なった斗栱が軒を支えている。それが巨大な建物なのに、かえって軽やかな印象を与えているのだろう。

入江泰吉氏の作品に雪がしんしんと降る中で撮った南大門の写真がある。
やはり、氏も雪の軽やかなイメージと重なるものがあったに違いない。

南大門

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奈良へ(6):桜の園

茶屋をでて歩いていると、茫洋としたほんのりと赤みを帯びた雲状のものが目の前に広がっているに気が付いた。
何かにひきつけられるようにしてそちらに歩いていくとそれは一面に桜の花が咲いているのだった。
知らなかった。東大寺にこんなに桜があるなんて。
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恐ろしいくらいに桜に囲まれている。みな、風にあわせてはらはらと花びらを散らせている。
そこにいるのはわれわれの他には鹿だけ。
鹿たちはみな、花見をするでもなく、地面からわずかに伸びた草を無心に食べ続けている。
人の気配に顔を上げた1頭の鹿は両方の鼻の穴が桜の花びらで埋まっていた。そして、何事もなかったかのように再び首をおろし草を食み続けた。

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東京でこれだけの桜があったら、場所取りのござでいっぱいになり、気の早い酔客が宴会をしているだろう。
奈良の人はそんな無粋なことはしないのだ。
時折人が通るだけの静かな桜の園。
ぞっとするくらいに美しかった。


東大寺の桜の園

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奈良へ(5):茶屋の甘酒

法華堂前の石段を降りていったところの茶屋に入り、甘酒を注文した。
春とはいえ、花冷えのする夕方で、ツレの提案で暖かいものを飲むことにしたのだ。
やがて出てきた甘酒はショウガのたっぷり入った上品な甘さで、すぐに体が温まってきた。
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茶屋といえば、二月堂の脇に古い茶屋がある。
司馬さんの『街道をゆく』の奈良散歩にも出てくる。下ノ茶屋という名前だそうだ。
「この茶店は、何年つづいているんですか」
「何百年でっしゃろな」
「三百年ぐらいですか」
「そうでっしゃろかな」
というとぼけた会話とともに登場する。

一度入ってみたいと思っているのだが、以前は修学旅行生に占拠されていて入れず、今回は巨大な犬が店先に鎮座していて入れなかった。ツレが犬恐怖症なので、近寄れないのだ。
犬恐怖症でなくてもあれだけ大きな犬が店先にいたら、ちょっと敬遠する。
(その後、下ノ茶屋は既になく、下ノ茶屋と思っていた茶屋は龍美堂というのだということが判明した。下ノ茶屋というからには二月堂の下の方にあったのかもしれない)

法華堂前の茶屋は早くも店じまいしていたので、今回は石段を降りた下のみやげ物やの隣にあった店に入った。こうやってみると、東大寺境内は結構店がある。

この茶屋の隣のみやげ物やはこの店と繋がっていた。
甘酒を飲み終わってちらっとそちらを見ると鹿せんべいが置いてあり、その奥には鹿セーム皮が置いてあった。
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奈良の鹿の皮かどうかはみなかったが、考えてみればこれだけの鹿がいれば、死んだ鹿を自然に朽ちるまで置いておけるわけがなく、誰かが処理しているのだろう。そのときに皮をいただいて製品にしているのかもしれない。
検索してみると奈良特産品としてでてくるので、やはり奈良の鹿なんだろう。

さすが寺の境内だ。生と死が当たり前のように同居しているではないか。

法華堂下の茶屋

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奈良へ(4):法華堂の宝石箱

誰が言ったのか忘れてしまったが、法華堂(三月堂)のことを宝石箱と表現した人がいた。
法華堂には中央に巨大な不空検索観音が立ち、両脇に(伝)日光・月光菩薩、四隅を持国天、増長天、広目天、多聞天の四天王が配され、その間に二体の金剛力士、地蔵菩薩、不動明王、梵天、帝釈天、吉祥天、弁財天が置かれている。
さらに、不空検索観音の背後の厨子には通常非公開だが、後ろ向きに執金剛神が安置され、全部で16体もの仏像がさして広くもない堂内に安置されている。その様子はまさしく宝石箱のようだ。
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中央の不空検索観音は天平時代に作られた高さ362センチのもの立像で全身に貼られた金箔と一点から放射される光を表す光背とによって、光の中心に立つさまが強調されている。
頭上には宝石で装飾された冠がある。昔、像の解体修理中に冠だけが博物館に出品されでごく間近に見たことがあるが、実に見事なものだった。正面には放射状の光背を背負った一体の観音像が取り付けられ、本体は細かい金の細工がなされ、それに青や緑の勾玉が取り付けられていた。古墳から出土する古代の冠から連綿と続く歴史を感じさせるものだった。

戒壇院からやってくると、こちらの四天王はひどくコミカルな感じに見える。それでもじっと見ていると四天王ならではの力強さを感じてくるから不思議だ。

ここ数年、奈良県観光連盟が作っている奈良大和路カレンダーを取り寄せて、壁にかけている。写真は全部奈良の仏像で、ちょうど3・4月がここの伝・月光菩薩なのだった。
それで、ここに来たら改めて伝・月光菩薩をじっくり見てやろうと思っていたのだ。

「伝」と付いているのは寺伝では日光・月光菩薩なのだが、実際は違うといわれているためだ。日光・月光菩薩は薬師如来の脇侍であり、不空検索観音の脇侍として配されることはない。
それはさておき、この二体のうちの特に月光菩薩の美しさは堂内の仏像の中でも群を抜いている。
こちらも天平時代のもので塑像で作られ、もとは色が付いていたと思われるがその色も長い歳月で剥げ落ち、粘土そのものの白っぽい色が露出している。それが薄暗い堂内でほの白く輝き、あたかも朧月のようなのだ。
しかし、その顔には凛とした内からあふれ出す強い信念を見て取れる。鋭い視線で前を見つめる。そして力強い眼力に反して、その手はやわらかく胸の前でそっと合わせている。
同時代に作られた戒壇院の四天王像は憤怒の相をしているが、この日光・月光と顔の輪郭が似ている。実際はどうなのか知らないが、同じ作者または工房の作品なのではないかと思わせるものがある。
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法華堂のうち、仏像が安置されている正堂の部分は天平時代に建てられたもので、のちに鎌倉時代に礼堂が増設されている。この両者が破綻なくまとまっていて、建物そのものもまた美しい。


法華堂

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奈良へ(3):二月堂・お水取りの思い出

やがて二月堂の下にまでやってきた。
二月堂はお水取りの舞台となる建物だ。お水取りは正式には修二会という。
かつては旧暦の2月1日から14日まで行われた2月に修する法会なので修二会という。今は3月1日から行われている。

今までに2度、見に来たことがある。

最初に見に来たときは、登廊のすぐわきで見ていた。もう5,6年前のことだったろう。
その日の午後、東大寺境内の各お堂を見た後、19時に上堂開始と聞いていたので、いったん下におりて早めの晩御飯でも食べようか、と言っていたのが17時ごろだった。
しかし、人が続々と二月堂の方に向かって歩いていく。まさか、と思ってついて行くと既に二月堂の下にはそれなりの人数の人がシートを敷いたりして待っているではないか。
そのときに偶然にも確保したのが登廊のすぐわきの場所だった。
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やがて鐘が鳴る。その鐘はいつまでも鳴らされ続ける。鳴らされ続ける鐘の音によって二月堂の周囲は一種異様な雰囲気に包まれる。
登廊を炎が登っていく。長い竹の先につけられた松明が登っていくのだ。
松明は何本も上がっていき、そして舞台の上で振り回され、火の粉が下で見ている人々の頭上に降りかかる。

10本の松明が終わると、登廊を人が続々と登っていくのが見えた。東大寺の関係者か?と思ってみていたが、どうも普通の人らしい。
ああ、みんな上に登って行くのかと、われわれもあとについて登っていった。

お参りして帰っていく人もいるが、局と呼ばれる部屋に入っていく人もいる。
二月堂はその中心を内陣、外側を外陣、さらに外側に局という部屋がある。
一般人はその局で見る。外陣に入れるのは事前に許可を得た人(男性のみ)であるらしい。

中に入ってみた。
薄暗い中で格子の向こう側に影が動くのが見える。沓の音や経を唱える声が聞こえる。
その日は過去帳読み上げの日だった。
過去帳には東大寺ゆかりの人の名が書かれていて、それを厳かに読み上げる。

鎌倉時代のある年、過去帳を読み役が読んでいると、青い衣の女性が現れ、
「なぜ我が名を呼ばない」
と言って消えたため、とっさに「青衣の女人」と声をあげた。以来、過去帳には「青衣の女人」と記されるようになった、という話がある。
「青衣の女人」を読む時には声の調子を落として、より厳かな口調で言う。

その瞬間を聞いてみたいと思って、その日に行ったはずだったのだが、読み上げの時間がわからず、何も食べていなかったわれわれは空腹に耐えかね、1時間程度で切り上げ帰ってしまった。

その読み上げはのちに手に入れたCDで聞くことができたが、またいつか実際のを聞いてみたい気がする。
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二月堂

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奈良へ(2):大仏殿裏手の桜並木

戒壇院を出て東に向かうとすぐに大仏殿の横に出る。

桜の季節に奈良に来たことがなかったから、ここにこんなに桜があるなんてことは思いもしなかった。
戒壇院横の桜の木の下には何頭かの鹿が、散っていく花びらの下に埋もれるようにしてたたずんでいた。
鹿も桜の美しさがわかるのか。
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大仏殿の裏手の道を歩く。
大仏殿裏手の道は見事な桜並木が植えられ、風が吹くたびに花びらを散らしている。
散り際の桜こそ美しいと思う。
はらはらと音もなく散っている桜の花びらが切なく心に突き刺さってくる。
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そのまま進むとやがて二月堂に至るが、その手前の道の様子がまたいい。
写真家・入江泰吉など多くの人がここの景色を絶賛してきた。
必ずひとりかふたりの絵を描いている人がいる場所だ。
周囲を古い土塀に囲まれた石畳の道はまるで中世に迷い込んだような気分にさせてくれる。
変わらずにいてくれることがうれしい。

やがて視線の先に二月堂の懸造りの建物が見えてくる。


東大寺裏手の桜並木

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奈良へ(1):東大寺戒壇院の四天王

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近鉄奈良駅を降りたわれわれは、まっすぐに東大寺に向かった。久々に訪れた奈良でどうしても会いたかった仏像がいる。それが東大寺戒壇院の四天王だ。東大寺といえば大仏だが、今回はそちらは敢えて無視し、中世を思わせる住宅に挟まれた小道を歩いて戒壇院に向かう。
やがて石段の先に建つ戒壇院の建物が見えてきた。散り初めの桜が花びらを石段の上にはらはらと落としている。
東京は桜もすっかり散っていたので、奈良でまだ桜が咲いているのは意外だった。

お堂の中に、以前と変わらない姿の四天王が戒壇の四隅に立っていた。持国天、増長天、広目天、多聞天の4体だ。

ここに来るのは最初の本を作ったとき以来だと思うので、もう4年以上もの歳月が経っている。

この四天王は天平時代に作られて以来、仏法を守護すべく1200年以上の間立っている。
彼らにとっては4年などほんの一瞬の出来事にしか過ぎないだろう。
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増長天は右手に矛を持ち、左手を腰に当てて口を開けて怒号を発している。
持国天は剣を手に持ち目を見開いて敵を威嚇する。
広目天は手に筆と巻物を持ち、目を細めて遠くを見据えている。
多聞天は右手に宝塔を載せ、上に捧げ持つ。

記憶の中ではもっと筋骨隆々な体格で、もっと激しい動きを表現しているようなイメージがあった。
しかし、実物は4体のどれも細身でスリムな体付きをしているし、ずっと動きも少ない。
実物から離れてみると、再び自分の頭の中でどんどん体に筋肉が付き、どんどん激しく動いていく。

彼らが内に秘めた怒りは静の中に激しい動を生み出している。

東大寺戒壇院


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『大鏡』

大鏡
『大鏡』

『大鏡』は平安時代の終わりに書かれた。誰が書いたものかはつまびらかにはなっていないが、少なくとも男性が書いたものとされ、それより少し前に紫式部によって書かれた『源氏物語』の王朝女流文学の傑作とされるのに対して『大鏡』は男性による王朝文学を確立したものとされる。

話は京都紫野の雲林院に菩提講を聞きにきた男が、2人の老人のしている会話の内容がひどく古いことに驚くところから始まる。老人のひとりは世継の翁といい190歳。もうひとりは繁樹といい180歳。
この老人が講師が出てくる間、手もちぶたさでいけないからと昔話を始める。

初めは第55代文徳天皇から、この話の時の今上である第68代後一条天皇までの御世についてを順に語る。
それが終わると藤原氏の栄華がどのようにしていまの藤原道長にまで繋がっているのかを説明するためだからと言って、代々の藤原氏について藤原冬嗣から話を始める。最期は道長の話で、特に道長の章が長い。

話の内容は堅苦しい歴史の話ではなく、ひどく下世話な話も混ざっている。それは天皇家や藤原家のお屋敷の塀の外で人々が塀の中の人についてひそひそと噂話をしているのを聞いているような感じで、古典を読んでいるという気が少しもしない。
1000年前の井戸端会議を今の時代に読んでいるのだと思うと、すごく愉快な気持ちになってくる。

この翁自身が藤原道長やその一族の繁栄を称えるようなことを言っていることから、『大鏡』は一般に道長礼賛の物語とされている。個々の記述は確かに称えているように読めるのだが、少し距離を置いてみると筆者は道長に対して皮肉を言っているようにも思えてくる。はるか昔の天皇や藤原家の話から始める壮大な皮肉である。

今の京都の人が相手を正面から非難しないで遠回りにやんわりと皮肉を言うのと同じで、昔の京都人も同じ気性を持っていただろう。
それに時の最高権力者を特に当時の人が真正面から批判できるわけがない。作者は誰が書いたとも悟られないようにしてこんな文章を書いてうさを晴らしたのではないだろうかとも思えてくる。

この講談社学術文庫の本は全編現代語訳となっていて、解説も適宜書いてあるので読みやすい。1000年前の書物をこんなにすらすらと読めていいんだろうかというくらいだ。
この本を買ったときは在庫がなく古本で探した。『今鏡』も増刷されていない状態で、これなどは文庫本なのに古本屋で20000円近くで売られているという異常な状態だったが、いまはどちらも増刷されて普通に手に入るようになったようだ。(定価は以前より上がっているが)

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『日本美術のことば案内』

日本美術のことば案内
『日本美術のことば案内』

この本は日本の美術を理解する上で必要な「ことば」について解説している。
それもただ、辞書のように「ことば」とその意味が羅列されているだけではない。
その「ことば」のひとつひとつは筆者によるやわらかめな文章で丁寧に解説されていて、読者は読み進むにつれて知らず知らずのうちに日本美術の奥深くへと「案内」されている、という感じ。
写真もふんだんに使われていて、それをただ眺めているだけでも楽しいのに、文章を読めばその絵や工芸に使われている技法も理解できてしまう一石二鳥感がある。
日本の美術に興味があるなら、一冊持っていて損はないでしょう。


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面白きかな明治の出版物

京都新聞ウェブ版で知ったのだが、国立国会図書館が近代デジタルライブラリーというのをやっている。ここで、明治期に刊行された図書8万9千タイトルをインターネットで読むことができる。
ここに掲載されている中からたまたま読んだ「奇談 貧乏旅行」というのが面白かった。
筆者は鉄脚子なる人物。はしがきには、この本以前に「野宿旅行」という冊子を出しているということが書かれている。(この野宿旅行」もちゃんと掲載されていた)
はしがきを読んだだけでは、自らを旅行が持病だというくらいに旅好きだという以外にこの鉄脚子なる人がどんな人物なのかわからないが、ともかく、東京を出発し、群馬の磯部の知人を訪ね、そこで3円の旅費と7個の握り飯を貰うところから始まる。
文体は夏目漱石の『坊ちゃん』みたいな飄々とした感じで面白く、読み進めば進むほど途中で読むのをやめられなくなってくる。

磯部を出発した鉄脚子は、松井田町を抜け碓氷峠を通り軽井沢に出る。
最近は軽井沢への鉄道ができ、ここを歩いて抜ける人もいなくなったと書いてある。かつてアプト式で急峻な碓氷峠を登った鉄道のことだろう。
その間、衣服の怪しさから子供たちから石を投げられ、若い女性からは嘲笑され、大人からはじろじろと見られたりする。旅館も外見で泊まるのを断られ続け、地元の人に教えられた木賃宿にようやく泊まれたりする。その間、地元の人との会話から鉄脚子なる人物が書生だということがわかってくる。
その後も、同じような旅をする書生と出会って途中を共に歩いたりして、目的地の長野の友人宅に到着する。

書生というと、人の家に住み込んで、雑用を手伝いながら勉強しているというイメージがあったが、こんなふうにふらふらと旅に出たりしている書生もいたんだなあということがわかる。

明治35年9月に発行されている。出版は大学館というところで、印刷は東京印刷株式会社。
この出版社が出している他の本も紹介されている。
タイトルだけ見てても何だか面白さうな本がたくさん出ている。

社会の裏側でも見えるのか。
『文界の大魔王』

大臣も昔は書生だった?
『大臣の書生時代』

奇人ってどんな人なの?
『奇人の旅行』

豪傑の最後はやっぱり豪傑なんでしょうか。
『豪傑の臨終』

豪傑はどんな豪傑な交際をしていたのか。
『豪傑の交際』

豪傑シリーズも維新豪傑となると、ものすごそう。
『維新豪傑の情事』

今も昔も若い男の関心はやっぱりこれ。
『夜の女界』
『婦人と恋愛』
『奥様と嬢様』
『女心の解剖』

まだまだ探せば面白そうな本がありそうだ。
面白いぞ明治の本。

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『原色インテリア木材ブック』

『原色インテリア木材ブック』

筆者の会社で出しているという椅子の背もたれ部分を170種類以上の木材で作り、それぞれの写真とその木の特質について説明している。
木には本当にいろいろなものがあることがわかる。木の色や木目の特徴、質感などの違い、重さ、堅さ、虫に食われやすいかどうかなど、千差万別だ。

それに、この本を読むと日本にはいろいろな国から木材が入っていることがわかる。
北米、東南アジア、アフリカ、中南米などさまざまだ。
日本で消費される木材の70%が外材で、そのうち北米材が45%を占めているのだという。

こうした外材は安いが問題もある。
たとえばマツは国産だとアカマツ、クロマツなどあり、いずれも時間がたつと経年変化で木肌が美しくなっていくが、北米から入ってくるベイマツは逆に汚くなっていくという。
スギについても北米産のベイスギは日に焼けると黒ずんで汚くなるという。

これを読んで、安く造られた建売の家が割りと早くぼろけた感じになるのは、こうした材料を使っているからなのかもしれない、と思った。安物は所詮安物、ということなのだろう。

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『図解でわかる 木造建築の構造』

〈図解でわかる〉木造建築の構造
『図解でわかる 木造建築の構造』

木造の家の建築に必要な基本知識をイラストや写真をふんだんに使ってわかりやすく説明している。
この本は、建築を仕事とする人や建築を志す人ばかりではなく、家作りを考えている建築には素人の施主が読むことも念頭に置かれていて、設計や各工程などで施主はどこに注意しなければならないかについてのコメントも書かれている。

長期荷重に分類される雪荷重についてや、屋根の形状ごとに風の方向によって積雪に偏りが出ることや、短期荷重とされる風や地震の力のかかり方、そして、それらの荷重に耐えるための構造など、家の設計にはいろいろな要因を考えなければならないことがわかって面白かった。
(将来の)施主として読むのであれば、すべてを細かく理解する必要はなく、木造の家はこういう風になっているのかとか、こういうところに注意を払う必要があるというところがだいたいわかればいいのだと思う。

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西新井大師の桜とユキヤナギ

うちの近所の西新井大師の桜も今が盛りと咲いている。

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桜の咲く姿はどこか物寂しい。
隣の灯籠には「富国徴兵保険相互会社」と刻まれている。戦争に関係した会社が慰霊のためにたてたものだろう。

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池のほとりにはユキヤナギが咲いていた。

このレンズ、背景のボケ味は少し派手めだが、決して悪くはない。これからの常用レンズに十分使えそう。

西新井大師

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六義園の枝垂桜

六義園に枝垂桜を見に行った。新しく買ったレンズの試写も兼ねて。
買ったのは、SIGMAの18-50mm F2.8 EX DC。ズーム領域全域でF値2.8の明るさを保つ。これをEOS Kiss Digitalに装着して出かけた。

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六義園のすぐ近くに母親の実家があるため、子供の頃に何度か行った事があるが、大人になってからは来ていない。30年ぶりくらいになるだろうか。
園路を区切るロープとそれをとめる杭、そして、杭にロープを通すために開けられた穴が目の高さにあった記憶がある。

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六義園の枝垂桜はちょうど満開を迎えていた。

六義園

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