京都2007年2月

京都のおみやげ

最近、京都に行くとちりめん山椒か京漬物のどちらかを買っていく。

ちりめん山椒でおいしいと思ったのが、京都駅ビルThe CUBE内に入っていた店で買ったものだったのだが、今回、その店はなくなっていた。しかも店の名前も覚えていないため、探すこともできず。

漬物では、高台寺近くに店を開いている東山八百伊
何年か前に知らずにその店で試食してみて、これは買わなければ、と思いその場で買った。
素材の味を生かした自然な味わいで、いくつ食べても飽きが来ない。

今回の旅では高台寺方面には行かなかったので、この店では買わなかったが、代わりにThe CUBE内に入っていた川勝総本家の漬物を購入した。
これも東山八百伊に似て、素材の良さを殺さない薄味でいながら味わい深い。
千枚漬けを1つしか買わなかったのに保冷材を付けてくれた。店のホームページにも書いてあるが、合成保存料、合成着色料を一切使っていないことの証なのだろう。

これらの漬物の味を知って以来、駅のおみやげ屋コーナーのどこででも売っている漬物は買えない体となってしまった。


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油掛地蔵

今回の旅で最後に出会った仏像がこの油掛地蔵。
この石仏に油を掛けることで祈願成就すると伝わる油まみれの石仏だ。

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地蔵と呼ばれているが、実は弥陀の定印を結ぶ阿弥陀如来だ。頭の左右に観音、勢至菩薩の種子が刻まれ、これによって阿弥陀三尊としている。
昭和51年に厚く固まった油を削り落として調べたところ、願主の銘が出てきて、その結果、鎌倉時代に平重行という人によって造られたことがわかった。

すぐ近くにはベンチが置かれて、おばちゃんが2人、井戸端会議の最中だった。この石仏を中心として近所の人が集まっているようだ。
願主は、平というから身分ある人物だったのだろう。そういう人が阿弥陀如来を造ったということは、自身の極楽往生を願ったものだったのであろう。
しかし、その石仏もやがて地蔵と呼ばれ、さらに油を掛けることで願い事がかなうとされるようになった。願主が聞いたらびっくりして腰を抜かすだろうけど、長い年月の結果、当初の目的とはまったく異なる庶民から親しまれる石仏となった。人の世の不思議さ、とでもいうべきか。

油掛地蔵

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遍照寺の十一面と不動

遍照寺はもともとは平安時代に広沢池の北側に造られ、かつては広大な寺地を誇ったとされるがいまは小さなお寺として池の南の少し離れたところに建つ。

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無人のお堂が開いていたので、あがって見た。
正面の内陣奥の向かって左に十一面観音、右側に不動明王が置かれているのがわかるが、遠くにあってシルエットでしか見えない。
どちらも創建当初の平安時代のものだ。

写真が貼ってあった。

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こちらが十一面さん。
(ピントがあってなかった)
柔和で穏やかなお顔がとても良い。

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こちらが不動さん。
平安時代、空海が請来した密教尊像の図様に従った大師様(だいしよう)の形式の像だ。

遍照寺


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広沢池の石仏千手観音

大沢池から自転車で広沢池へ。
この2つの池、すぐにどっちが大沢でどっちが広沢だったかわからなくなる。
この際だから、覚え方を考えてみた。
大覚寺に接しているのが大沢池。これは「大」覚寺だから「大」沢池と覚えることにしよう。
その東にあるのが広沢池。こっちは大沢池より広いので広沢池と覚えよう。これで大丈夫に違いない。

広沢池に向かうとすぐにびっくりするくらいの田園風景が広がる。大覚寺の門前やちょっと南に行くともう住宅街なのに、どうしてここは田畑しかないのか不思議だ。

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いったいここはどこ〜?という田園風景。

ショートカットしようとあぜ道を通り、水路の脇を通ったら、その先は柵がしてあって普通には通れないようになっていた。しかたなく自転車を持ち上げて柵を乗り越え、広沢池に到着。

平安時代にかんがい用ため池として造られたという広沢池にはなぜか水がなかった。
池の西端に観音島と呼ばれる小さな島があるのだが、水が無いので島という感じはしない。

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かかっている橋を伝って観音島に渡ると弁財天を祀った祠があった。

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千手観音が置かれていた。
石でここまで繊細なものが彫れるのかとびっくりする。しかも惚れ惚れするようないいお顔をしている。

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後ろはこんな風に。

1893年に五智山蓮華寺に祀られていた像を借りて、ここに安置したものだという。

広沢池の千手観音

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大沢池の石仏

大沢池をぐるっと廻って池の北側まで来た。

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大沢池ごしに大覚寺が見える。

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名古曽の滝。離宮嵯峨院の滝殿庭園に設けられたもので、
「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」
の歌で知られている。この歌が詠まれた頃には既に滝は枯れ、石組みだけとなっていた。
平成6年に始まった発掘調査によって中世の遺水が発見され、平成11年に復元された。

大沢池の北側まで来たのは、この石仏が見たかったため。
石仏を守るようにして生えた木々の下にいくつもの石仏が置かれている。

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鎌倉中期の作と言われるこれらの石仏は長い年月の間の風雨によってすり減り、また、倒れかけている石仏もある。押しとどめることのできない情無き時の流れを感じさせるひと時だった。


大沢池の石仏


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大覚寺「ほとけさんは香りが大好物」

翌朝、嵯峨嵐山駅まで移動し、駅近くで貸自転車を借りた。行き先は大覚寺。門跡寺院だ。
宸殿前には左近の梅と右近の橘がある。後世になると左近は桜に変わるが、大覚寺はこうなる以前の形式を留めている。

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菊の御紋の幕が張られた式台玄関。一般人はここからは入れず脇の受付から入る。

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御影堂では読経の最中だった。ここでしばらく読経の声を聴いた。

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一番奥の五大堂からは大沢池を望める。突き出しているのは観月台。

五大堂には五大明王が安置されている。五大明王とは、不動、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉の五体の明王のことだ。怒りの表情を浮かべる仏達である。

五大堂は写経場となっているので、写経をしながら五大明王と対面することにした。

受付のおばさんに写経したい旨をいうと、写経する前の身の浄め方や写経を納める時の作法などを教えてくれた。
まず塗香(ずこう)という砂のお香を手のひらに塗り、次にその匂いを嗅ぐことで、体の中から浄めることになるのだそうだ。
その説明をしながら
「ほとけさんは香りが大好物だそうですから」
と、まるでまんじゅうか何かが好物な近所のおっちゃんのことでも言うように言ったのが面白かった。
これが今回の旅で聞いた2つ目の名言となった。(1つ目の名言はこちら

室内には既に何人かの人が物音もたてずに真剣に写経をしていた。
五大明王はだいぶ遠いが、横一列に並んでいるのがわかる。
昭和50年に松久朋琳、宗琳父子によって造られたもの。

この寺には、平安時代末期に仏師・明円が造ったものもあり、不動を除く像は東寺講堂の明王を模して造ったという。これは収蔵庫にあり、通常は公開されていない。

大覚寺


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こかじ

その日の晩は、東山三条の定宿からほど近いところにある彩味こかじへ。こかじは、青蓮院のある通りから路地に入った住宅街の中にある創作割烹の店。
その昔、予約の電話を入れたが満席で行けず、今回はリベンジということになる。

奥に座敷があり、手前にテーブル席が1つとあとはカウンタ席だけの小さな店。既に2組の客が来ていて、われわれはカウンタ席に通された。
店は、たぶん夫婦であろう2人だけで切り盛りしている。

熱燗を頼むとおちょこが乗った盆を出された。青蓮院の通りにも何軒かある骨董屋にでも置いてありそうなちょっと古そうな陶器のおちょこがいくつもある。その中から青絵で山河が描かれたのを選んだ。

熱燗をちびちびやっていると出てきたのが、何種類かの漬物を小さな鞠状のシャリに載せた野菜寿司。さっぱりしていておいしい。茶わん蒸しが出てきて、その後はまるまる一匹の鯛の塩焼き。
塩の乗った外側の皮を口に入れてはくいっとやり、鯛の肉をどっさりとはしで取りほぐしてはくいっとやる。そんな風に2人で夢中になって食べていると、食べ終わったころにおかみさんから「鯛の鯛」があるから、と言われた。
そういえば、鯛にはそういうのがあったんだった。
探してもらったが、壊してしまったようで、跡形もなかった。

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デザートはシンプルにいちご。
(料理の写真はこれだけ)

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夜の白川。

そういえば前に来た時は巨大なクレーンがうごめいていた青蓮院前で建設中のマンションは完成していた。かなり和風テイストの外観にしているけど、景観としては前に建っていたお屋敷がそのまま残った方が京都にとってはよかった、ということは言うまでもない。

こかじ

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泉涌寺の三尊仏

楊貴妃観音堂から坂を下っていくと仏殿がある。
その仏殿を見て、どうしてこのような建物がここにあるのか、と驚いた。
その建物はどう見ても禅寺のものだ。
泉涌寺は天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺で、純粋な禅宗寺院ではない。

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仏殿の中に祀られているのは三尊仏。鎌倉では三世仏と呼ばれよく祀られているが、京都では珍しい。釈迦・阿弥陀・弥勒の三尊で、釈迦が現在、阿弥陀が過去、弥勒が未来に関係する仏であるため、三世仏と呼ばれる。
仏殿天井には狩野探幽の描いた龍図があり、これも禅宗寺院の様式だ。三尊仏の祀られる背後の壁には同じく探幽の白衣観音が描かれている。ちなみに白衣観音というのはよく禅僧が好んで描いていた観音だ。

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泉涌寺が造られた鎌倉時代には中国・宋の影響によって、鎌倉の建長寺、円覚寺、京都の建仁寺などの禅宗寺院が多く造られた。これらの寺院には宋から来日した一握りの僧の深い影響が見られる。
その僧とは蘭渓道隆であり、無学祖元であり、彼らはこれらの寺院に足跡を残し、また住持となったりしている。

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もしや泉涌寺にもこれらの僧が来ていたのではないかと調べてみたら、まさしく蘭渓道隆が泉涌寺の来迎院に滞在していた。
さらに蘭渓道隆が日本に来るきっかけとなったのは、宋に留学していた泉涌寺の僧・月翁智鏡と知りあったことなのだという。
泉涌寺の略年表には、こうした事情は出てこないのだが、どうやら泉涌寺に禅様式の建物があるのはその影響であるらしい。
いまの仏殿は江戸時代に再建されたものだが、そのときに以前の建物の様式を復元したと言われる。

仏殿背後には、舎利殿があり、内陣の宝塔内部に仏舎利が安置され、それが謡曲『舎利』の舞台ともなっている。

さらにその背後には歴代皇族の尊牌が祀られる霊明殿がある。ここに来ると泉涌寺は、厳しい禅宗寺院風からきらびやかな門跡寺院風へと、急に印象が変わる。

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泉涌寺、楊貴妃観音

だらだら坂の突き当たりにある泉涌寺に着いた。
門には「御寺(みてら)泉涌寺」と掲げられ、塀には寺格の高さを表す五本線が引かれている。
四条天皇がこの寺に葬られて以来、歴代天皇の山陵が営まれるようになり、また明治以降神仏分離によって天皇家で仏事が行われなくなってからも、この寺と天皇家は密接な関係を保っていた。御寺と呼ばれるのはこのためだ。

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受付を入って左に折れると楊貴妃観音堂がある。ここに楊貴妃観音が祀られる。
本来、観音は中性であり、造られる像も部分的に女性的なものを感じさせても、男とか女とかそういうものを超越した雰囲気を漂わせていることが多い。
しかし、この観音像はあごのラインがすっきりした細面の美人顔といい、なで肩の小さな肩といい、生身の女性を思わせる。

玄宗皇帝が絶世の美女と言われた亡き妃を偲んで等身大にかたどったという観音像で、建長7年(1255)、湛海律師によって招来されたと伝わる。

もともとは秘仏で100年に一度しか開帳されなかった。
いまではこのお堂でいつでも拝観できる。

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観音堂前の願掛け地蔵

泉涌寺

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今熊野観音寺の石仏

左へ行くと今熊野観音寺、右斜め前の道を行くと泉涌寺、その間の道が四条天皇他の陵墓の分岐点までやってきた。実はさっきから気になっていることがある。食べ物屋がないのではないかという疑問である。即成院のすぐ脇に泉涌寺の門があるのを見たときからそうじゃないかと思っていたのだが、どうらやはりそのようだった。
12時をとうに廻った時間で、空腹で目の前がチカチカするようになってきた。今から戻って食べ物屋を探すのも時間の無駄だしなあ、と思っていたときにツレが言った。「さっき、法性寺で貰ったお菓子がある」。すっかり忘れていたが、そうだった。
天皇陵が見えるところで食べるのもなんだからと、脇の道に入った。賞味期限はにじんで見えなかったがこの際背に腹は代えられない。ありがたく頂いた。

わずかに空腹を満たしたわれわれはその道の左手にある今熊野観音寺を目指した。

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今熊野観音寺は、山中で白髪の老翁の姿で現れた熊野の権現と弘法大師空海が出会い、熊野権現から「ここに一宇を構えよ」と言われたことから、空海によって造られたと伝わる。
白髪の翁と出会ってしまいそうな、異界への入り口のような赤い橋を渡った。

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境内には平安時代に作られた古い三重石塔があった。
もしかしたら空海も目にしたものかもしれない。

本尊は秘仏の十一面観音で、空海作と伝わる。
普段はお前立ちの像が立っている。遠くてよく見えなかったが、こちらで見るとすごくきれいなお顔をしている。

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境内にはいくつもの古びた小さな石仏があった。
この寺は、頭痛封じの観音としても知られ、また、西国三十三ヶ所霊場のひとつでもあり、古くから庶民が身近なお寺として拝んできたのだろう。
これらの石仏はこの寺が多くの人々に頼られてきたことの証なのだと思う。

今熊野観音寺


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戒光寺の丈六さん

即成院を出て泉涌寺の門をくぐり、ゆるやかな上り坂を上ってしばらくいくと左手に戒光寺の門が見えてくる。表の門に「丈六釈迦如来」と書かれた提灯が下げられている。

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その提灯に書かれている通り、ここには丈六の釈迦如来がいる。丈六さんと呼ばれて親しまれている。

丈六とは一丈六尺のことで、約4.8メートルの長さのことをいう。
この丈六は仏像の高さの基準の1つとなっていて、坐像の場合はその半分の2.4メートルということになっている。
作る際の大きさの問題もあるのだろうが、丈六仏というとたいていは坐像の事が多く、立像は珍しい。
立像の丈六仏と言われてもすぐには思いつかないくらいだ。

4.8メートルの立像だと、ちょっとしたロケットを見上げているような気分になる。

ところで、なぜ仏像が丈六を基準として作られるか。
誰が言い出したのかは知らないが、インド人のお釈迦様は普通のインド人の身長である四肘の二倍の八肘あるとされていた。仏教が中国に入ってきたときに、当時は今のように物の単位は統一されていないから、教典に書かれているインドの単位をどう扱うか考えた。大きいことはいいことだ、と思ったのかどうかはわからないが、そのときに普通の人の二倍だった身長が更に長くなった。唐大尺の二尺を一肘と換算することで、一丈六尺という巨大な大きさになったのだそうだ。

この戒光寺の丈六さんは丈六といいながら身の丈だけで一丈八尺(5.4メートル)あるそうだ。
ならば、丈八さんと呼んであげよう。
丈八さんは、大きな体で立ったままで首を下向きにまげてわれらをやさしいまなざしで見守って下さっていた。

観光寺院ではないので、拝観料は取っていないが、ろうそくと線香をあげて拝むようにと書いてあった。誰もいない静かな本堂でお賽銭をあげ、手を合わせてから外に出た。

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境内には泉涌寺七福神のひとつの弁財天が祀られていた。
秘仏で、1月の七福神めぐりと11月3日の弁財天大祭の年二回、開帳される。

戒光寺

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即成院、阿弥陀如来と二十五の菩薩たち

即成院は平安時代に恵心僧都源信によって建立された光明院を始まりとするとされる。
いまの即成院に直接繋がるのは、藤原頼通の子、橘俊綱が伏見の山荘に建てた持仏堂で、伏見寺または即成就院と称した寺だ。
本尊は両脇に二十五菩薩を並べる阿弥陀如来で、この像は、橘俊綱が亡くなった年に作られたものとされている。
お父さんの藤原頼通といえば、平等院を建立した人で、平安時代を代表する仏師・定朝作の阿弥陀如来で良く知られている。
この時代の貴族たちは、末法思想によって半ば強迫観念的に阿弥陀如来を信仰していた。阿弥陀に帰依しなければ地獄に落ちると恐怖におののいていたのだ。
頼通の子、俊綱もその親同様に、阿弥陀如来に帰依し、これらの仏像を残した。

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即成院の門。屋根に鳳凰が乗っている。

本堂の奥には那須与一の石造宝塔がある。与市は出陣する途中で病気になったが、この寺に参籠したところ病が治り、屋島の戦いで戦功をたてたことから、仏縁を感じて出家し、この寺で没したと伝わっているのだそうだ。

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ずんぐりした与一の宝塔。

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この寺の手水はハイテクだった。ボタン式の蛇口がついている。

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なぜ蛇口を付けないといけなかったかというと、答えはこの中にある。

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あけるとがちゃがちゃが。カプセルに入って出てくるのは、扇の形をした紙石鹸とおみくじ。
この紙石鹸で手を洗うことで願いがかなうのだとか。
石鹸だからひしゃくでは洗いきれず蛇口が必要となったのだろう。

即成院


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法性寺「拝観料はいただきますよ」

法性寺には事前に拝観の申し込みをしてある。
予定の時間の少し前に到着。インターホンを鳴らして中にいれてもらう。

法性寺は藤原忠平の建立と伝えられ、藤原氏の氏寺として広大な寺地を誇ったが、その後、兵火によって悉く焼失してしまう。
いま目の前にある法性寺という寺は明治以後に旧名を継いで建てられた。
ただ名前を継いだだけではなく、この寺の本尊は当時の法性寺潅頂堂本尊と伝わる27面の千手観音なのだ。国宝指定されている。

先客があるようで、こちらでお待ちをと言われ待つことに。ふすまの奥から漏れ聞こえる話し声を聞くともなしに聞いていると、先客は寺とか仏像とか、かなり詳しい人のようだ。予定の時間をだいぶ過ぎてようやく先客は帰っていった。
待っている間に、事前に拝観予約をしていないけど、見せてくれという男がひとり現れた。取り次いだ人が「どうしますか?」と住職に尋ねているのが聞こえてくるが、結局、われわれと一緒に奥に通されることになった。

住職はおばあちゃんと呼びたくなりそうな、こう言っては失礼かもしれないが小柄な可愛らしい方で、まず本尊の前でご焼香してくださいとおっしゃる。
焼香が終わるといよいよ十一面観音とご対面だ。
正直言って、お顔のあたりは薄暗くてあまりよくはわからなかったが、下に置いてある写真を見ると渡岸寺の十一面観音のように頭の横からニュッと飛び出していてこちらを睨む化仏があることは確認できた。

本尊の安置された部屋の入り口には大きな不動明王と薬師如来が置かれていた。どちらも昭和40年ごろに作ったもので、このうち不動明王はついさっき訪れた同聚院の不動を模して作ったものなのだそうだ。どうりで似ていると思った。
あちらも法性寺五大堂の中尊であり、住職さんは「本来はこの寺にあの仏像があるべきなんですが、そういうわけにはいかないので、ここに模造を置いた」というようなことをおっしゃっていた。

一通り見せてもらあったあと、あとから来た男がそれでは、とすすっと立ち上がろうとしたときに、すかさず小さなおばあさんの住職さんの口からその名言は発せられた。
「拝観料は頂きますよ」
このはっきりした物言いは、いかにも京都の人らしい。
あわてて財布をとり出してから、ぽかんとする男にさらに
「お気持ちで結構ですから」
と。あたふたする男を横目に見ながら、こちらは事前に用意しておいた封筒をそっと差し出した。

「また来てねー」と送られて、寺をあとにした。
もう門の外に出たのに、また手招きされ
「お菓子あげる」
といわれ、戻ってお菓子をいただいた。

志納を渡したあとでわれわれに対して急にフレンドリーになったような気がするが、これは気のせいだろうか。
ああいうのは先に渡した方がいいんだろうなと思うが、どうも目の前に見たいものがあると忘れてしまう。

ちなみにその時に貰ったお菓子はあとでわれわれの命を救うことになる。

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法性寺

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じゅうまん不動

翌朝、東福寺塔頭の同聚院に行った。

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ここには日本で一番大きい木彫坐像の不動明王がいるらしい。
像高は2.65メートルだそうだ。

らしい、と書いたのは実物を見られなかったため。

「護摩御祈祷は毎月十八、二十八日午後一時にて不動明王尊御開帳し厳修致します」
という一枚の紙が貼られていた。
普段は公開していないようだった。

そんなわけでここも写真のみ。

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ちなみにこの不動明王は、かつて藤原道長が建立した法性寺・五大堂の五大明王の中尊で、定朝の父・康尚の作と言われている。このあたりはかつて広大な法性寺の境内だったとされる。

この不動はじゅうまん不動と呼ばれる。じゅうまんとは、このように書く。

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「土力」又は「十万」の2字を一字にしたものとされる。

境内には写真の不動とよく似た石仏があった。

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こちらを拝んで帰ることにしよう。

同聚院

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蹴鞠の神様

雨がぽつぽつと降ってくる中、今出川通を小走りに宿に向かっていたときに、たまたま前を通りがかったので入ってみたのがこの白峯神社。

祭神は崇徳天皇と淳仁天皇。配流され、その地で亡くなった二人の天皇が明治天皇の意向により祀られている。崇徳天皇は
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ
の歌で知られる天皇だ。

場所は蹴鞠道の家元だった飛鳥井家の邸宅があった場所で、飛鳥井家が祀っていた精大明神という鞠の神様を地主神とする。
そんな縁から、ここは球技上達を願う人でにぎわっている。

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鞠庭があって、ここで蹴鞠が行われるらしい。

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団子っ鼻の狛犬がりりしく決めのポーズをとっていた。

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蹴鞠の碑にはめ込まれた玉を回すと球技向上がかなうのだそうだ。

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Jリーグ関係者とかサッカー日本代表の奉納も多い。キャプテン翼の原作者によるものもあった。

白峯神社

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西陣の聖天さん

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こちらも弘法大師にゆかりのあるお寺。弘法大師創建という。
お寺の名前は雨宝院。大聖歓喜天を祀ることから西陣聖天と呼ばれる。
境内の提灯には日本最古という枕詞がついている歓喜天だが、これは非公開らしい。

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観音堂に祀られるのが重要文化財指定の千手観音。
こちらは事前に拝観申し込みが必要で、それに気がついたのが出発する前日。075で始まる電話番号に電話してみるが、携帯電話に転送されているようで、電源が切られているか電波の届かないところにいます、というメッセージが聞こえてくるのみ。あとで掛け直そうと思って忘れたまま当日になってしまった。

観音堂には拝観料三〇〇円と書いてあるが、呼び鈴を鳴らしても誰も出ず。
結局、お堂に貼られている写真を拝ませてもらっただけでここは終了となった。

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雨宝院に隣り合う本隆寺の塀。
日蓮宗で結構大きな寺だった。

雨宝院

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釘抜き地蔵

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東京だったら巣鴨のとげ抜き地蔵がこの寺と同じ役割を担っていると言えるだろう。
釘抜き地蔵と呼ばれるこの寺の正式名称は石像寺。
とげ抜き地蔵のような俗っぽさを感じないのは京都の歴史の深さ故か。

本尊は弘法大師が彫ったという伝承の石造地蔵菩薩で、この本尊が祀られる本堂の廻りを願掛けにきた人たちが時計回りにぐるぐると廻っていた。

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この本堂の背後に石仏が安置されるお堂がある。
ここに重要文化財指定されている阿弥陀三尊の石仏がある。

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元仁二年(1224)に開眼されたという銘が入っている。
鎌倉時代に多く作られた中国宋の影響を受けているような感じの顔をしている。
真ん中からぽっきり折れた跡が痛々しい。

釘抜き地蔵

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町屋の喫茶

千本釈迦堂には他にもいい仏像があったがそろそろ先を急ぐことに。。。

千本釈迦堂の南門を出たところの通りは地図で見ると五辻通りとある。
この通りを東に向かって歩いていると、「ひだまり」という名の喫茶店があった。
いま「急ぐことに」と書いたばかりだが、ここでちょっと休憩することにした。

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入ってみると古びた町屋をそのまま使った喫茶店だった。土間で靴をぬいで畳の部屋にあがる。
畳の上にぽつぽつとちゃぶ台が置かれていて、あいている1つに座った。
隣はこたつだった。
奥にはちゃんと中庭がある。

ミルクセーキを注文。ツレはバニラの紅茶。
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道側からは格子を通したあかりが入ってくる。
中庭の側からも光が入ってくる。
現代では贅沢な空間となってしまった。
こういう古い建物の畳に座っているとすごく落ち着く。
隣のこたつ、いいなあとチラチラっと見たりしがらまったりした。

が、そうそうゆっくりもしていられないので、出発する。
出て少し行くとそこは風呂屋町という地名だった。
どういういわれがあるのだろう。

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次はあの寺へ。

ひだまり

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肥後定慶の六観音

快慶の十大弟子の反対側には六観音が並んでいる。
六観音とは聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、准胝観音、如意輪観音の六体のことで、それぞれが地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道を救うとされる。

このうち准胝観音は出張中でいなかった。
出張先はなんとスイス。リートベルク博物館というところでの「観音展」に出品中だった。
仏教美術展とかではなく「観音」に絞っているところがすごい。スイスの人に、観音菩薩をわかってもらえるのだろうか。

この准胝観音にあった署名によって、六観音の作者が判明した。
それには
造仏師肥後別当定慶
と入っていた。

定慶という人は同時代に何人かいたようで、この作者の場合、区別するために特に肥後定慶と呼ばれる。

いずれも彩色されていない素木のままで玉眼が入っていて、端正な顔立ちの美しい像だ。光背の透かし彫りもものすごく丁寧に彫ってある。

肥後定慶で思い出すのは鞍馬寺の聖観音だ。
鞍馬寺の聖観音は、山奥にある寺にふさわしく、あたかも山中で戯れる少女のような初々しさを持っている。好きな像のひとつである。
衣のひだがひどく乱れていて、これも山奥でさんざん遊んだあげく乱れたかのようで、この像を山中の誰もいない鞍馬寺の宝物館で見たときには、不思議な神秘性を感じたものだった。

千本釈迦堂の六観音の方が若い時代に造ったものだそうで、六観音の方はちょっと表情に堅さが見える。鞍馬寺の聖観音の方がのびのびと造っている感じがする。


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快慶の釈迦十大弟子

千本釈迦堂の霊宝殿には優れた像がたくさん収蔵されている。

そのうちの釈迦十大弟子は目犍連尊者の右足に「巧匠 法眼快慶」と署名されていることから快慶の作品とわかっている。法眼快慶と名乗るのは晩年のことで、この作品も晩年に作られたものとされている。

この人は本当にすぐれた技巧を持っていると思う。
顔のしわ、浮き出た血管とあばら骨、軽やかな衣など徹底したリアリズムを追求し、見事にそれをやってのけているし、十人のそれぞれの異なる顔の表情、体格などをバランスよく表現している。

ただ、晩年の作品というと、どうしても比べてしまうのが運慶の晩年の代表作である興福寺・北円堂の無著・世親菩薩像だ。この2体の深い精神性をたたえた像と比べると、快慶の像は技巧に走り過ぎて深みが感じられない

この像を見ていると、晩年の快慶はさほど幸せではなかったのではないかと思えてくる。
快慶は運慶と同じ慶派の仏師として活躍したが、運慶が師である康慶の血を引く慶派の正当後継者であったのに対して、快慶は血のつながりはなく、生没年さえも不明な人物である。
熱心に阿弥陀仏を信仰し、みずからを安阿弥陀仏と名乗ったのも、他の慶派仏師と異なるところだ。この阿弥陀信仰は東大寺大仏再興の総責任者であった重源の影響と言われる。
快慶はその重源に見いだされ、東大寺の僧形八幡神像や浄土寺の阿弥陀三尊など多くの重要なその時代を代表する仕事をなした。
千本釈迦堂の本尊・釈迦如来像が快慶の弟子の行快であることからわかるように、快慶も弟子を持ってみずからの工房の中心となって働いていた。

慶派の中でもずばぬけて技巧力を持っていたが、血のつながりがないために、慶派の中心にはなれなかった。もちろんこの時代、血縁関係のない人間が流派を引き継げるとは思っていなかったかもしれない。独立して何人かの弟子を持ったものの、慶派の中心が運慶の子供たちへと移っていくのを見ながら、一抹の寂しさを感じていたのではないかと、この十大弟子たちの表情を見ながら思ってしまうのである。


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千本釈迦堂

今回の京都行きのテーマは「仏像」。
半分仕事である。(でも、とある事情によって、この話はなくなるかも)

京都駅からタクシーに乗り込み、千本釈迦堂へ。
狭い路地を猛スピードで飛ばす粗っぽい運転の割には、話の物腰がひどく丁寧なタクシーの運転手さんから、近くの北野天満宮はもう梅が咲いてきれいだという話を聞いた。
せっかくだけど行かないといけない場所が決まってるから、そっちは行けないなあと思いながら、タクシーを降り、千本釈迦堂の境内に入った。

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応仁の乱による戦火にもあわずに残った京都市中最古の寝殿造りの本堂。

ここに来るのは8年ぶりくらいで。

この寺の正式名称は大報恩寺という。
おかめの寺としても有名だ。

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おかめさんの話は、ここに書かなくても「千本釈迦堂」で検索すると出てくると思うので省略。

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おかめさんの話、検索してもらえました?
そんなわけでここにはおかめの像がたくさん奉納されている。

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こんなたぬき顔のおかめも。

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境内には大笑いする布袋さんが立っている。

あ、こういうのを見ている暇はなかったんだった。

それでは、さっそく霊宝殿へと参りましょう。

千本釈迦堂

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