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2008年8月

般若寺の文殊:奈良2008.8

「今行っても何にもあらしませんで」とタクシーの運ちゃんに言われながら到着した般若寺。コスモスで有名な寺だが、運転手はそこコスモスはまだ咲いてないし、こんなあっつい時に何をしにいくのかといぶかしんだのだった。
もちろん我々の目当てはこの寺の本尊である文殊菩薩像だ。獅子の上に座る文殊菩薩で、慶派仏師・康俊の作とされる。西大寺を中興した叡尊が荒廃していたこの寺を復興した。叡尊は文殊信仰を厚くし、その縁で西大寺やこの寺に文殊菩薩像が残される。

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本堂周囲には石仏が取り巻く。

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境内には夏を代表する花、サルスベリが咲いていた。

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コスモスが満開の時期は人でいっぱいなのだろうが、この時期は誰もおらず境内は独り占めだ。

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コスモス、咲いてないことはなかった。

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本堂を取り巻く石仏は如意輪観音、聖観音、長谷寺式十一面観音などさまざま。

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般若寺から奈良市街に戻る途中には奈良少年刑務所がある。
奈良県監獄署として明治41年に完成した建物だ。建築家・山下啓次郎の設計による。
暗くなりがちな監獄をこのようなロマネスク風の建物にしたのは刑務所を悪人を懲らしめるためではなく、更生の施設と考えた当時の気鋭の思想によるのだろうか。明治の人の肝の据わり方を感じさせる。

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奈良涼味4題:奈良2008.8

4日間の滞在中、連日最高気温34度を記録していた奈良では毎日冷たいものを食べて過ごしていた。

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もちいどの商店街のじゃるだんという喫茶店のかき氷。
ちなみにここの商店街、割りと最近まで「もいちどの」だと信じていた。
漢字で書くと「餅飯殿」という由緒正しい地名の商店街だ。その由緒はこちらで。


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飛鳥、岡寺の門を少し下がったところにある坂乃茶屋でもかき氷。
氷の写真は撮りわすれた。店内は贈られた色紙がびっしりと貼られている。

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吉野では趣向を変えて八十吉のくずきり。コシのある葛を黒蜜につけていただく。左の皿に乗る3つのまるいものは生の葛菓子で、店内でしか味わえない。柔らかくて口に入れると溶けてしまう。

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東大寺二月堂脇の龍美堂のかき氷。店内には大黒天が祀られるお堂そのものの建物で営業している。
ここの氷は他と違って非常にキメが細かく、口に含むとすっと溶けて美味であった。氷を削る機械が違うのだろうか。

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阿修羅:奈良2008.8

これまで訪れた奈良のお寺でもっとも訪問回数が多いのは、やはり興福寺だろう。近鉄奈良駅に近いのでちょっと時間があれば立ち寄れる。興福寺でいつでも拝観できるのは、国宝館と東金堂だ。

お寺の雰囲気を味わうには東金堂だ。薬師如来を中心としたお堂で、のほほんとした感じのご本尊の両脇に立つ白鳳時代の日光・月光菩薩は同時代の薬師寺の両菩薩を思い起こさせる雰囲気があるし、文殊菩薩と維摩居士は2人の間で繰り広げられた問答を再現するかのようだ。維摩居士はひたいに血管まで浮かび上がらせた必死の形相がいい。平安時代初期の頭から足下に踏まれる邪鬼までを一木で彫った四天王が四隅に置かれ、周囲の守護を鎌倉時代の十二神将が固める。甲冑に身を包み、刀を持つ十二神将たちがまた恐ろしいまでのリアルさを持って、迫ってくる。

国宝館は外観は寺院風に似せた鉄筋コンクリートの建物だ。中は博物館風でそっけない。
しかし、この中には巨大で威厳ある千手観音や白鳳時代の代表作である山田寺仏頭、ユニークな板彫十二神将、筋肉隆々の金剛力士像、おどけた表情が愉快な天燈鬼・龍燈鬼など興福寺に伝わる珠玉の宝物が数多く展示されている。

ここに来ると再会を楽しみに心ときめかせる像がある。天平時代の釈迦十大弟子と八部衆だ。中でも八部衆の阿修羅。
眉根をひそめて悲しげな顔でまっすぐ前を見据えている。心のうちに打ちあけがたい気持ちを抱えたままに立ち尽くしているような、思春期の青年が抱える心理を表現したような像だ。3面ある顔のうちのひとつは下唇を噛みしめている。阿修羅の顔を見ていると、何とも言えない切ない気持ちになってくる。

ところで、この阿修羅が来年、東京に来る。東京国立博物館で展示されるのだ。
国宝館では八部衆は3体、十大弟子は4体しか通常公開されないが、恐らく東京では全部が勢ぞろいしたところを見られると思う。先日の薬師寺展での日光・月光菩薩、聖観音がそうだったように、今回も後ろ姿も見られるようになるのではないだろうか。

普通なら、喜ばしいと思うところだが、正直言って阿修羅を東京に運ぶのは反対だ。
八部衆も十大弟子も塑像でできている。土で作られた極めて壊れやすいものだ。像の運送に置いて日通は完璧な仕事をしてくれるだろう(日通が担当するかは知らないが、美術品の運搬といえば日通なので今回もそうかと)。ただ、運搬中に他の車が突っ込んでくることもあるだろう。こうした予測不可能な事故が起こった場合、どうするのか。

仏教ファンであり、仏像ファンである自分にとって、仏像という存在はなかなか悩ましい問題だ。仏教は世の中は無常であり、何者にも捕らわれないことを説く。しかし、仏像というモノ(特に国宝、重文級の)があることによって、仏教寺院はその保存機関となってしまい、モノへの執着を余儀なくされる。参拝する人間もそれにとらわれることによって、仏教の理念よりもそちらに目が行ってしまいがちで、寺院が本来の役割を果たしてない状態になっていると思う。

自分としては、形あるものは必ず壊れ、朽ちて変化していくのだから、お寺の古い建物や仏像が壊れたというニュースに接してもそれほど気にはならない。
ただ、修行が足りないのだろう。阿修羅だけは消えないで欲しいと思っている。
阿修羅は別格なのだ。

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飛ぶ鳥の飛鳥:奈良2008.8

飛鳥駅前で自転車を借り、真夏の飛鳥を走った。
「飛ぶ鳥の飛鳥」というが、暑過ぎるせいか空を飛ぶ鳥の一匹も見なかった。

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橘寺の黒駒の銅造。
聖徳太子を乗せて飛鳥と斑鳩を毎日往復したという。

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橘寺前の石仏。
ずっと立ち通しでつらくないかい?

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岡寺のわらじ守。

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岡寺三重塔から見る飛鳥。
沸き立つ雲は夏らしく。

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岡寺仁王門の柵に付けられたよだれ掛けと毛糸の帽子。
幼児の厄払いのためだというものだ。

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恒例の飛鳥寺のご本尊前での説明を聞く。最後に唐突に「写真撮ってよろし」で終わった。
仏像写真の撮影を公認している数少ないお寺でもある。

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飛鳥寺の西にある首塚。
敬愛する入江泰吉氏の写真だとまるで田んぼの真ん中にあるのだが、もはやそんな光景を見る事はできない。

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飛鳥坐神社の鳥居近くの蓮。
暑さでちょっとひからび気味。

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亀形石造物。
以前見たときは発掘直後で行けば誰でも見られるようになっていたが、いつのまにか有料になっていた。埋め戻すという話もあったくらいだったから、有料でも公開してもらった方がありがたい。
この上にある酒船石は無料のままだったが、以前は、本当にこんなところにあるの?という感じだった隣のセメント工場の横から登って行く小道がきれいに整備されていた。ちなみに上からはこの亀は見えないように柵まで作られていた(ケチ)。

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伝飛鳥板蓋宮跡。
古代の天皇たちもここに立って飛鳥の景色を見たと考えると、ぞくぞくしてくる。

真夏の飛鳥の風は案外、心地よかった。

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吉野よし:奈良2008.8

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淑き人の良しとよく見て好(よ)しと言ひし吉野よく見よ良き人よく見

天武天皇が壬申の乱が終わってから7年経ったあとに、自分と天智天皇の皇子6人を集め、忠誠と結束を誓わせた吉野の盟約の際に、皇子らに対して歌ったとされる歌だ。吉野という地に対する言挙げの意味合いもあったのだろうと思う。

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大海人皇子(天武天皇)は兄の天智天皇が病床に付いたとき、次の天皇を自分ではなく、天智天皇の皇子の大友皇子にさせたがっているのを察して、出家し吉野に籠った。天智天皇の死後、大友皇子との戦いが始まる。壬申の乱である。結果、大海人皇子は勝利し、天皇として即位することになった。
天武天皇没後は、その皇后であった鸕野讃良(うののさらら)皇女(持統天皇)が即位した。持統天皇は即位後、夫の天武と壬申の乱までの間を過ごした吉野を思い起こすようにして、何度も行幸した。
天武天皇夫妻にとって、吉野は思いの深い地だ。

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その後、後醍醐天皇も足利尊氏から逃れ、この地に朝廷を開いた。後醍醐天皇の脳裏には吉野に籠ったあと、壬申の乱で勝利した天武天皇の行跡があったことだろう。しかし、後醍醐は天武のようにはなれず、無念のうちに吉野に骨を埋めることになった。

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吉野というのは社会において居場所を失った人をかくまう装置だったのだ、と今回、ここを訪れて思った。それは上のような歴史的な事実から思ったわけではない。

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あるお寺を訪ねたときのことだった。その寺は表の通りから外れ、狭い坂を降りたところにあり、その途中には、小さな、決して生活が楽そうには見えない家が数軒建っていた。寺はその家を過ぎた先の突き当たりにある。その家の前を歩いて行こうとすると、何かの用で外に出てきた女性と目があった。割と知られた寺なのでここをよそ者が通るのは珍しいことでは無いはずだが、その女性は鋭い目つきでよそ者である我々を睨んだ。その目つきに社会から疎外された人の思いを感じたのだ。

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そんな体験から天智天皇や後醍醐天皇の時代だけに限らず、現代でも何らかの理由で、それまでの住居に住めなくなり、吉野に流れてきて住み着いた人も案外いるのではないかと思ったのだ。もちろん、勝手にそう思ったというだけで事実かどうかは知らない。仮に吉野にそういう人が住み着いていたとしても、それをどうこう言うつもりもない。ただ、吉野にはそういう人を受け入れる風土があるのかもしれないということを思っただけだ。

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み吉野の 耳我(みみが)の嶺に
時なくぞ 雪は降りける
間(ま)無くぞ 雨は降りける
その雪の 時なきがごと
その雨の 間なきがごと
隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来(こ)し その山道を

天武天皇が壬申の乱直前に吉野に逃れてきたときのことを回想して歌った歌だ。
写真のような山道を天武も通ったことだろう。

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いつ着くのか不安な心持ちになって歩いた山道の先にたどり着いた如意輪寺にいた黒猫。

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如意輪寺には楠木正行が鏃で扉に書いたという辞世の句が残されている。吉野の深い山々はどれだけの人の思いを抱え込んでいるのか。

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役行者が製法を教えたとされ、山伏の間で長く伝わってきた陀羅尼助丸。
修験道の本拠地、金峰山寺のお膝元だけあって、このような店が点在する。
主成分はキハダだそうだ。

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昭和3年に造られた現存する日本最古のロープウェイ。
上側に人が多く座るとバランスが崩れるということで、下側に移動させられた。ちょっと怖。

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ムダに止れ:奈良2008.8

現代はいかにムダをそぎ落とし、効率を高めていくかの戦いである。
とかくムダというものの負の面ばかりが強調される。

しかし、ムダには正の側面もあるということを教えてくれた会社があった。
その名は近畿日本鉄道株式会社という。

それは灼熱の外界とは別世界のような冷房の効いた快適な吉野に向かう近鉄特急に乗り込み、しばらくしたときのことだった。

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突然のアナウンスがあった。
「次はムダ。ムダに止ります。」

いったい、どういうことなのか。
世界でももっとも時間が正確と言われる日本の鉄道において、近鉄は敢えてムダに止るというのだ。
時間厳守の鉄道会社にとって、これほどチャレンジングなことはないだろう。

衝撃のアナウンスから数分後、電車はムダに止った。

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いつか、ムダに降りてムダに散策してみたいものだ。

六田駅

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なら燈花会:奈良2008.8

8月の奈良は暑かった。
ただ、都会の人工的な暑さとは違って、いにしえの都の暑さは不思議と心地よかった。
今年に入って3度目の奈良入り。今回は4日間の滞在だったが、すっかり日焼けして帰ってきた。

まずは夏の風物詩となりつつある、なら燈花会
燈火会と書きたくなるが、正しいタイトルは燈花会だ。

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あちこちにロウソクのあかりが灯され、いつもの奈良とは様子が一変する。

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猿沢池。空には月が出ていた。

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その日は、三条通り沿いのホテルフジタに泊まったので、会場までは歩いてすぐだったが、電車はかなり混雑したようだ。

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興福寺東金堂も夜間拝観が行われていた。

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北京オリンピックに合わせて五輪マークも。

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奈良公園を抜けて東大寺に向かった。

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運慶、快慶を始めとした慶派集団の手によって造られた南大門の仁王像。

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ライトアップされると一段とカッコいい。

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大仏殿もライトアップされると案外カッコいい。

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鹿たちも人の波の中に入って燈花会を楽しんでいるようだった。

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生きてる?

今年の3月に奈良に行ったときに見つけた自動販売機。
頭塔の前にあった。

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かなり古そうだが、使用禁止になっていないし、コインの投入口もふさがれていない。
何が出てくるのか、あるいは何も出てこないのか興味はあったが、あまりに古い缶飲料が出てきても迷惑なので、お金の投入はしなかった。チャレンジャー求む。

ちなみに頭塔とは下の写真のような階段ピラミッドみたいなもの。

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古くからの言い伝えで玄昉という人の首が落ちた場所とされる。だから頭塔と呼ばれた。
唐突に、「首が落ちた」と書いたが、それはこんな事件があった。

玄昉という人は奈良時代の僧侶で、唐に留学して法相を学んで帰国している。その後、吉備真備とともに政権中枢へと入った。その頃、そうした動きを好ましく思っていなかった藤原広嗣が九州で兵を起こすが、失敗し処刑される。その後、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると玄昉は九州へと左遷されるが、その地は玄昉に恨みを持つ広嗣が死んだ地。玄昉はその地で広嗣の怨霊に殺され、首だけが奈良まで飛んできて落ちた、という奇怪な話なのだ。
それを祀ったのがこの頭塔と言われてきたのだが、最近の学説では実忠が建てた土塔であるという説が有力だ。

頭塔

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