
淑き人の良しとよく見て好(よ)しと言ひし吉野よく見よ良き人よく見
天武天皇が壬申の乱が終わってから7年経ったあとに、自分と天智天皇の皇子6人を集め、忠誠と結束を誓わせた吉野の盟約の際に、皇子らに対して歌ったとされる歌だ。吉野という地に対する言挙げの意味合いもあったのだろうと思う。

大海人皇子(天武天皇)は兄の天智天皇が病床に付いたとき、次の天皇を自分ではなく、天智天皇の皇子の大友皇子にさせたがっているのを察して、出家し吉野に籠った。天智天皇の死後、大友皇子との戦いが始まる。壬申の乱である。結果、大海人皇子は勝利し、天皇として即位することになった。
天武天皇没後は、その皇后であった鸕野讃良(うののさらら)皇女(持統天皇)が即位した。持統天皇は即位後、夫の天武と壬申の乱までの間を過ごした吉野を思い起こすようにして、何度も行幸した。
天武天皇夫妻にとって、吉野は思いの深い地だ。

その後、後醍醐天皇も足利尊氏から逃れ、この地に朝廷を開いた。後醍醐天皇の脳裏には吉野に籠ったあと、壬申の乱で勝利した天武天皇の行跡があったことだろう。しかし、後醍醐は天武のようにはなれず、無念のうちに吉野に骨を埋めることになった。

吉野というのは社会において居場所を失った人をかくまう装置だったのだ、と今回、ここを訪れて思った。それは上のような歴史的な事実から思ったわけではない。

あるお寺を訪ねたときのことだった。その寺は表の通りから外れ、狭い坂を降りたところにあり、その途中には、小さな、決して生活が楽そうには見えない家が数軒建っていた。寺はその家を過ぎた先の突き当たりにある。その家の前を歩いて行こうとすると、何かの用で外に出てきた女性と目があった。割と知られた寺なのでここをよそ者が通るのは珍しいことでは無いはずだが、その女性は鋭い目つきでよそ者である我々を睨んだ。その目つきに社会から疎外された人の思いを感じたのだ。

そんな体験から天智天皇や後醍醐天皇の時代だけに限らず、現代でも何らかの理由で、それまでの住居に住めなくなり、吉野に流れてきて住み着いた人も案外いるのではないかと思ったのだ。もちろん、勝手にそう思ったというだけで事実かどうかは知らない。仮に吉野にそういう人が住み着いていたとしても、それをどうこう言うつもりもない。ただ、吉野にはそういう人を受け入れる風土があるのかもしれないということを思っただけだ。

み吉野の 耳我(みみが)の嶺に
時なくぞ 雪は降りける
間(ま)無くぞ 雨は降りける
その雪の 時なきがごと
その雨の 間なきがごと
隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来(こ)し その山道を
天武天皇が壬申の乱直前に吉野に逃れてきたときのことを回想して歌った歌だ。
写真のような山道を天武も通ったことだろう。

いつ着くのか不安な心持ちになって歩いた山道の先にたどり着いた如意輪寺にいた黒猫。

如意輪寺には楠木正行が鏃で扉に書いたという辞世の句が残されている。吉野の深い山々はどれだけの人の思いを抱え込んでいるのか。

役行者が製法を教えたとされ、山伏の間で長く伝わってきた陀羅尼助丸。
修験道の本拠地、金峰山寺のお膝元だけあって、このような店が点在する。
主成分はキハダだそうだ。

昭和3年に造られた現存する日本最古のロープウェイ。
上側に人が多く座るとバランスが崩れるということで、下側に移動させられた。ちょっと怖。
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