奈良2008.8

東大寺 大仏殿 突然の雷雨:奈良2008.8

三月堂から降りてきて、大仏殿の前に来た頃には何だか空模様が怪しくなっていた。
東大寺を訪れた場合、戒壇堂や二月堂、三月堂に立ち寄る事はあっても大仏殿の中に入る事はめったになく、久々に寄りたいと思っていた。ちょうどこの日は帰る日で、18時半の新幹線のチケットを取っていたので、雨に降られて京都に戻るのが遅くなると面倒な事になる。
だが、ま、いいか、降ったら降ったときに考えようと大仏殿に入る事にした。

まず中門の持国天(じこくてん)と兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)に挨拶をし、

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大仏殿前の灯籠の音声菩薩(おんじょうぼさつ)に挨拶をし、

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奈良の大仏さんと再会する。

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久しぶりに見るとでっかいなあと思う。
何もかもが大きい。

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そうやって大仏殿でいろいろ感動しているうちに、雷鳴が聞こえてきた。雨も激しい音をたてて降り始めた。

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しょうがない。雨がやむのを待つことにしよう。
考える事は皆、同じで誰もがそのまま堂内で外を見上げながら雨宿りしている。
入ってくる人もなくなり、出て行く人もいないからとたんに人の動きもなくなった。
待っている間、人気だったのが柱の穴くぐり。

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子供がやるものだと思っていたが、大人も結構チャレンジしている。最初、西洋人の女性が通り抜け、それを見た日本人の男もくぐりぬけに成功していた。
売店ではひっきりなしに傘がどこかから運ばれてきては、飛ぶように売れていた。少し小ぶりになったので、その傘を買い、外に出た。

途中の歩道のアンダーパスは冠水して通れず、迂回した奈良公園では燈花会の灯籠が雨に流されていた。

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興福寺まで戻ってくると、すっかり雨はやみ、夕方の日の光が周囲を包んでいた。

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奈良2008.8終わり。

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東大寺 三月堂〜四月堂:奈良2008.8

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二月堂を降りると三月堂の前では

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鹿がいちゃついていた。

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人前でチューですか。

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三月堂。正式名称は法華堂。
巨大な不空羂索観音を中心に日光・月光菩薩、梵天・帝釈天、四天王などなど堂内は宝石箱とも言われる仏教美術の宝庫。

向かって左側は天平時代に建てられた部分で、右側は鎌倉時代に増築されたもの。
ちなみに京都・奈良のお寺で仏像に会いましょうの第4刷以前ではP82の法華堂の写真が裏焼きされて左右が逆になってました。本をお持ちの方、すみません。。

四月堂は三月堂の前にある。
現在の本尊は千手観音だが、以前は普賢菩薩を本尊として祀っていたため、普賢堂とも呼ばれる。
向かって左側に扉の閉まった厨子があり、その中にかつての本尊の普賢菩薩が祀られている。
堂内を熱心に見ていたためか、お寺の方がその厨子を開けてくださった。
こちらの普賢菩薩には初めてお目にかかる。小ぶりな像で白い象に乗り静かに合掌している。
普賢菩薩の合掌して静かにたたずむ表情がとてもいい。

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二月堂と彫られた灯籠には空蝉がとまっていた。
色即是空 空即是色の言葉を思い起こす。

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東大寺 戒壇堂〜二月堂:奈良2008.8

先日、『入江泰吉のすべて』を読んでいて、入江泰吉氏の自宅が戒壇堂の前の道沿いにあったということを知った。近くまで来たから探してみようかと思ったが、暑いし途中の道から戒壇堂のすぐ前に出てきてしまったので、そのまま戒壇堂に行く事にした。
もちろん四天王像が目当てだ。天平時代にこれほどまでの人の深い心理までも表現したような造詣が出来たということは逆に言えば、人間は大して進歩してないとも言えるわけで、この像を見るたびに複雑な気持ちになる。

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戒壇堂の裏手に廻るとこんな土塀があった。
奈良の土塀、好きだ。

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右 大ふつ  左 二月堂。
入江さんの写真にもこの石碑を写したものがあったような。

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大仏殿の裏を回って二月堂に至る道。
定番中の定番だが、何度見てもこの中世っぽい風景はいい。

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二月堂に上がる石段。
お水取りのときには、闇を切り裂くようにして松明を持った童子1人につき1人の連行衆がこの石段をとんとんと上がって上堂していく。

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石段の下には参籠宿所。
紙衣を着て、祓い清められた連行衆が御水取りの時に寝泊まりする宿所だ。

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初めてお水取りを見たときは、この石段のすぐ脇から二月堂を見上げる斜面で見たのだったなあ。(遠い目)

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そして二月堂舞台上に到着。

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転害門:奈良2008.8

東大寺の転害門。三間一戸の八脚門。
中世の修理を受けているが、東大寺の中で唯一の天平時代の遺構。

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この門は東大寺の鎮守、手向山八幡宮の祭礼が行われる重要な場所。
それで注連縄が結ばれている。

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厳しい警備が24時間行われる。
奥の丸い4つの石は祭礼の時に神輿が鎮座する場所。

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脇には崩れかけた土塀。
奈良らしい風景でこういう土塀を見るのは好きなのだが、だんだんとなくなってきているようで残念に思う。

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雨が落ちて穿った穴らしい。
ここまで穴が開くにはいったいどれだけの時間がかかったのか。

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見上げた今の屋根には穴らしきものは開いていなかった。

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転害門

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五劫の擦り切れ:奈良2008.8

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まるで霊魂が抜け出す瞬間のようなイケメン少年の飛び出し注意看板に目を奪われながら到着した先は。。。

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五劫院。
ここを訪れるために、わざわざ8月の暑い奈良にやってきたのだ。

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ここのご本尊は五劫思惟阿弥陀如来。別名アフロ如来。
「五劫」の劫とは非常に長い時間のことで、一辺40里の岩を天女が3年に一度、舞い降りて羽衣で撫で、岩が擦り切れてなくなるまでの時間のことをいう。五劫はその5倍だからとんでもなく長い時間ということだ。
阿弥陀如来は如来となる前は法蔵菩薩といったが、この法蔵菩薩が衆生を救済するにはどうしたら良いかを五劫の間、考え続けた。その結果、髪が伸び放題となった姿を表したのがここの五更思惟阿弥陀如来なのだ。

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その昔、五劫思惟の阿弥陀如来を彫るよう言われた仏師がいた。
仏師「へっ?五劫の間、考え続けていたんですかい?いったいどのようなお姿にすれば良いので」
依頼者「人間は長い間じっとしていたらどうなる?」
仏師「お腹が空いて倒れますな。」
依頼者「馬鹿者。偉い菩薩様じゃ。五劫のあと更に偉い如来様になったのじゃ」
仏師「なら、髪は伸び放題、爪も伸び放題でしょうね。それでもやっぱり、お腹は空くでしょう。」
そんな会話から出来たのがこうした五劫思惟阿弥陀であった。(以上、まったくの想像)

何度か奈良国立博物館でお目にかかっているはずだが、本堂でお会いするのは初めて。
通常期は事前連絡することで拝観可能だが、8/1〜8/12(今年の場合)は事前連絡無しに拝む事ができる。

公開期間とはいえ雨戸は閉まっていたので、玄関で拝観をお願いすると、戸を開けてくれた。
正面に五劫思惟阿弥陀が座っている。ぼわぼわの髪の毛も気にする風でもなく、衆生救済の方策を考えついた安堵感のようなおだやかな表情をしていらっしゃった。ちなみに両手は衣に隠しているため、伸び放題の爪を見る事はできない。

本尊手前の卒塔婆には俊乗坊重源と書かれていた。
五劫院は東大寺の子院で開山は俊乗坊重源なのだ。そんな有名人の名が普通に卒塔婆に書かれているということに感動する。寺伝に因れば、この五劫思惟阿弥陀の像も重源が宋から請来したものとされる。

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墓地の入口には見返り地蔵(別名朝日地蔵)と呼ばれる石仏がある。
後ろを見返り、ついておいでと言っているような石仏だ。

五劫院

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般若寺の文殊:奈良2008.8

「今行っても何にもあらしませんで」とタクシーの運ちゃんに言われながら到着した般若寺。コスモスで有名な寺だが、運転手はそこコスモスはまだ咲いてないし、こんなあっつい時に何をしにいくのかといぶかしんだのだった。
もちろん我々の目当てはこの寺の本尊である文殊菩薩像だ。獅子の上に座る文殊菩薩で、慶派仏師・康俊の作とされる。西大寺を中興した叡尊が荒廃していたこの寺を復興した。叡尊は文殊信仰を厚くし、その縁で西大寺やこの寺に文殊菩薩像が残される。

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本堂周囲には石仏が取り巻く。

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境内には夏を代表する花、サルスベリが咲いていた。

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コスモスが満開の時期は人でいっぱいなのだろうが、この時期は誰もおらず境内は独り占めだ。

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コスモス、咲いてないことはなかった。

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本堂を取り巻く石仏は如意輪観音、聖観音、長谷寺式十一面観音などさまざま。

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般若寺から奈良市街に戻る途中には奈良少年刑務所がある。
奈良県監獄署として明治41年に完成した建物だ。建築家・山下啓次郎の設計による。
暗くなりがちな監獄をこのようなロマネスク風の建物にしたのは刑務所を悪人を懲らしめるためではなく、更生の施設と考えた当時の気鋭の思想によるのだろうか。明治の人の肝の据わり方を感じさせる。

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奈良涼味4題:奈良2008.8

4日間の滞在中、連日最高気温34度を記録していた奈良では毎日冷たいものを食べて過ごしていた。

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もちいどの商店街のじゃるだんという喫茶店のかき氷。
ちなみにここの商店街、割りと最近まで「もいちどの」だと信じていた。
漢字で書くと「餅飯殿」という由緒正しい地名の商店街だ。その由緒はこちらで。


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飛鳥、岡寺の門を少し下がったところにある坂乃茶屋でもかき氷。
氷の写真は撮りわすれた。店内は贈られた色紙がびっしりと貼られている。

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吉野では趣向を変えて八十吉のくずきり。コシのある葛を黒蜜につけていただく。左の皿に乗る3つのまるいものは生の葛菓子で、店内でしか味わえない。柔らかくて口に入れると溶けてしまう。

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東大寺二月堂脇の龍美堂のかき氷。店内には大黒天が祀られるお堂そのものの建物で営業している。
ここの氷は他と違って非常にキメが細かく、口に含むとすっと溶けて美味であった。氷を削る機械が違うのだろうか。

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阿修羅:奈良2008.8

これまで訪れた奈良のお寺でもっとも訪問回数が多いのは、やはり興福寺だろう。近鉄奈良駅に近いのでちょっと時間があれば立ち寄れる。興福寺でいつでも拝観できるのは、国宝館と東金堂だ。

お寺の雰囲気を味わうには東金堂だ。薬師如来を中心としたお堂で、のほほんとした感じのご本尊の両脇に立つ白鳳時代の日光・月光菩薩は同時代の薬師寺の両菩薩を思い起こさせる雰囲気があるし、文殊菩薩と維摩居士は2人の間で繰り広げられた問答を再現するかのようだ。維摩居士はひたいに血管まで浮かび上がらせた必死の形相がいい。平安時代初期の頭から足下に踏まれる邪鬼までを一木で彫った四天王が四隅に置かれ、周囲の守護を鎌倉時代の十二神将が固める。甲冑に身を包み、刀を持つ十二神将たちがまた恐ろしいまでのリアルさを持って、迫ってくる。

国宝館は外観は寺院風に似せた鉄筋コンクリートの建物だ。中は博物館風でそっけない。
しかし、この中には巨大で威厳ある千手観音や白鳳時代の代表作である山田寺仏頭、ユニークな板彫十二神将、筋肉隆々の金剛力士像、おどけた表情が愉快な天燈鬼・龍燈鬼など興福寺に伝わる珠玉の宝物が数多く展示されている。

ここに来ると再会を楽しみに心ときめかせる像がある。天平時代の釈迦十大弟子と八部衆だ。中でも八部衆の阿修羅。
眉根をひそめて悲しげな顔でまっすぐ前を見据えている。心のうちに打ちあけがたい気持ちを抱えたままに立ち尽くしているような、思春期の青年が抱える心理を表現したような像だ。3面ある顔のうちのひとつは下唇を噛みしめている。阿修羅の顔を見ていると、何とも言えない切ない気持ちになってくる。

ところで、この阿修羅が来年、東京に来る。東京国立博物館で展示されるのだ。
国宝館では八部衆は3体、十大弟子は4体しか通常公開されないが、恐らく東京では全部が勢ぞろいしたところを見られると思う。先日の薬師寺展での日光・月光菩薩、聖観音がそうだったように、今回も後ろ姿も見られるようになるのではないだろうか。

普通なら、喜ばしいと思うところだが、正直言って阿修羅を東京に運ぶのは反対だ。
八部衆も十大弟子も塑像でできている。土で作られた極めて壊れやすいものだ。像の運送に置いて日通は完璧な仕事をしてくれるだろう(日通が担当するかは知らないが、美術品の運搬といえば日通なので今回もそうかと)。ただ、運搬中に他の車が突っ込んでくることもあるだろう。こうした予測不可能な事故が起こった場合、どうするのか。

仏教ファンであり、仏像ファンである自分にとって、仏像という存在はなかなか悩ましい問題だ。仏教は世の中は無常であり、何者にも捕らわれないことを説く。しかし、仏像というモノ(特に国宝、重文級の)があることによって、仏教寺院はその保存機関となってしまい、モノへの執着を余儀なくされる。参拝する人間もそれにとらわれることによって、仏教の理念よりもそちらに目が行ってしまいがちで、寺院が本来の役割を果たしてない状態になっていると思う。

自分としては、形あるものは必ず壊れ、朽ちて変化していくのだから、お寺の古い建物や仏像が壊れたというニュースに接してもそれほど気にはならない。
ただ、修行が足りないのだろう。阿修羅だけは消えないで欲しいと思っている。
阿修羅は別格なのだ。

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飛ぶ鳥の飛鳥:奈良2008.8

飛鳥駅前で自転車を借り、真夏の飛鳥を走った。
「飛ぶ鳥の飛鳥」というが、暑過ぎるせいか空を飛ぶ鳥の一匹も見なかった。

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橘寺の黒駒の銅造。
聖徳太子を乗せて飛鳥と斑鳩を毎日往復したという。

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橘寺前の石仏。
ずっと立ち通しでつらくないかい?

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岡寺のわらじ守。

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岡寺三重塔から見る飛鳥。
沸き立つ雲は夏らしく。

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岡寺仁王門の柵に付けられたよだれ掛けと毛糸の帽子。
幼児の厄払いのためだというものだ。

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恒例の飛鳥寺のご本尊前での説明を聞く。最後に唐突に「写真撮ってよろし」で終わった。
仏像写真の撮影を公認している数少ないお寺でもある。

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飛鳥寺の西にある首塚。
敬愛する入江泰吉氏の写真だとまるで田んぼの真ん中にあるのだが、もはやそんな光景を見る事はできない。

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飛鳥坐神社の鳥居近くの蓮。
暑さでちょっとひからび気味。

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亀形石造物。
以前見たときは発掘直後で行けば誰でも見られるようになっていたが、いつのまにか有料になっていた。埋め戻すという話もあったくらいだったから、有料でも公開してもらった方がありがたい。
この上にある酒船石は無料のままだったが、以前は、本当にこんなところにあるの?という感じだった隣のセメント工場の横から登って行く小道がきれいに整備されていた。ちなみに上からはこの亀は見えないように柵まで作られていた(ケチ)。

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伝飛鳥板蓋宮跡。
古代の天皇たちもここに立って飛鳥の景色を見たと考えると、ぞくぞくしてくる。

真夏の飛鳥の風は案外、心地よかった。

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吉野よし:奈良2008.8

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淑き人の良しとよく見て好(よ)しと言ひし吉野よく見よ良き人よく見

天武天皇が壬申の乱が終わってから7年経ったあとに、自分と天智天皇の皇子6人を集め、忠誠と結束を誓わせた吉野の盟約の際に、皇子らに対して歌ったとされる歌だ。吉野という地に対する言挙げの意味合いもあったのだろうと思う。

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大海人皇子(天武天皇)は兄の天智天皇が病床に付いたとき、次の天皇を自分ではなく、天智天皇の皇子の大友皇子にさせたがっているのを察して、出家し吉野に籠った。天智天皇の死後、大友皇子との戦いが始まる。壬申の乱である。結果、大海人皇子は勝利し、天皇として即位することになった。
天武天皇没後は、その皇后であった鸕野讃良(うののさらら)皇女(持統天皇)が即位した。持統天皇は即位後、夫の天武と壬申の乱までの間を過ごした吉野を思い起こすようにして、何度も行幸した。
天武天皇夫妻にとって、吉野は思いの深い地だ。

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その後、後醍醐天皇も足利尊氏から逃れ、この地に朝廷を開いた。後醍醐天皇の脳裏には吉野に籠ったあと、壬申の乱で勝利した天武天皇の行跡があったことだろう。しかし、後醍醐は天武のようにはなれず、無念のうちに吉野に骨を埋めることになった。

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吉野というのは社会において居場所を失った人をかくまう装置だったのだ、と今回、ここを訪れて思った。それは上のような歴史的な事実から思ったわけではない。

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あるお寺を訪ねたときのことだった。その寺は表の通りから外れ、狭い坂を降りたところにあり、その途中には、小さな、決して生活が楽そうには見えない家が数軒建っていた。寺はその家を過ぎた先の突き当たりにある。その家の前を歩いて行こうとすると、何かの用で外に出てきた女性と目があった。割と知られた寺なのでここをよそ者が通るのは珍しいことでは無いはずだが、その女性は鋭い目つきでよそ者である我々を睨んだ。その目つきに社会から疎外された人の思いを感じたのだ。

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そんな体験から天智天皇や後醍醐天皇の時代だけに限らず、現代でも何らかの理由で、それまでの住居に住めなくなり、吉野に流れてきて住み着いた人も案外いるのではないかと思ったのだ。もちろん、勝手にそう思ったというだけで事実かどうかは知らない。仮に吉野にそういう人が住み着いていたとしても、それをどうこう言うつもりもない。ただ、吉野にはそういう人を受け入れる風土があるのかもしれないということを思っただけだ。

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み吉野の 耳我(みみが)の嶺に
時なくぞ 雪は降りける
間(ま)無くぞ 雨は降りける
その雪の 時なきがごと
その雨の 間なきがごと
隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来(こ)し その山道を

天武天皇が壬申の乱直前に吉野に逃れてきたときのことを回想して歌った歌だ。
写真のような山道を天武も通ったことだろう。

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いつ着くのか不安な心持ちになって歩いた山道の先にたどり着いた如意輪寺にいた黒猫。

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如意輪寺には楠木正行が鏃で扉に書いたという辞世の句が残されている。吉野の深い山々はどれだけの人の思いを抱え込んでいるのか。

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役行者が製法を教えたとされ、山伏の間で長く伝わってきた陀羅尼助丸。
修験道の本拠地、金峰山寺のお膝元だけあって、このような店が点在する。
主成分はキハダだそうだ。

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昭和3年に造られた現存する日本最古のロープウェイ。
上側に人が多く座るとバランスが崩れるということで、下側に移動させられた。ちょっと怖。

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