京都取材旅行記第四回

留守中に上がり込んで描いた襖絵:京都取材旅行第四回(13)

P1030571何だか京都にいるという実感を持てないまま滞在最終日となってしまった。ツレも同じ気持ちだという。5泊もしたというのに、これはいったいどうしたことか。
最後は高台寺の塔頭・圓徳院に行った。またしてもカーナビに惑わされながらどうにか高台寺の駐車場に到着。圓徳院に着いたのは朝10時前。10時からということで、まだ開いていなかった。10時にならないと開かない寺というのも珍しい。

近隣の写真を撮りつつ時間をつぶして再び戻ってくると、今度は開いていた。
受付を済ませて中に入ると、お目当てにしてきた長谷川等伯の襖絵のうちの「春の画」が襖におさまっているのが目に入った。

等伯は大徳寺・三玄院住職、春屋宗園に襖絵を描かせて欲しいと常々懇願していたが許されず、ある日、住職が留守であることを知って勝手に上がり込み、そこにあった襖に絵を描いたというものだ。
もともとの襖のガラとして桐の紋があったが、等伯は構わずその上に墨で描いた。
その襖絵がいま園徳院の所蔵となっている。

「冬の画」はガラスケースに入れられ展示されていた。
白い桐紋が襖一面に散らされた上に松や岩が描かれている様子はまるで雪が降り積もっているようでいっそう寂しげな印象を与える。

等伯はこの襖絵をきっかけに京都での活躍の場を得るようになった。51歳での思い切った賭けだった。

京都取材旅行記第四回おしまい。

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くわばらくわばら:京都取材旅行第四回(12)

IMG_2433北野天満宮の大鳥居の前ではたくさんのタクシーが客待ちをしていた。その大鳥居をくぐると両側には奉納された灯籠や神牛像が置かれる長い参道が大きな楼門まで続いている。
神牛は撫でると学業成就、病気平癒などの願いがかなうとされるものだ。

北野天満宮の祭神である、菅原道真は藤原摂関家が強大な力を持っていた時代に異例の右大臣への抜擢をされるが、左大臣・藤原時平の讒言により、太宰府に左遷され、2年後にかの地で没した。
それから数年経ち、時平を始めとし、道真の左遷に関わった参議や醍醐天皇の皇子らが続々と亡くなっていったことから、道真の祟りとの噂が立ち始め、さらには清涼殿に落雷したことから朝廷は道真の怨霊によるとし、罪を許すとともに贈位を行った。
また、このときの落雷から道真の怨霊は雷神信仰と結びつくようになる。
雷よけのまじないに「くわばらくわばら」と言うのは道真の領地があった桑原に由来するという。だたし、雷は桑畑に落ちないという伝承からこのように言ったという説もある。

その後、多治比文子という童女に、道真の託宣があり、いまの地に祠が建てられ、それから5年後には近江に住む神職の子にも神託が下り、社を造営することになった。

当初、怨霊として恐れられていたこの神も時代が下るに従って庶民の間で天神様として親しまれる存在となっていった。特に類いまれな学才によって右大臣にまで上りつめたことから、学問の神として尊崇されるようになった。境内の端には絵馬掛所があり、おびただしい数の合格祈願の絵馬が掛けられている。

我々が絵馬を眺めているわずかな間にも何人かの人が入れ替わり立ち替わり、願を掛けにやってきていた。近くには合格御礼に立てられた鳥居があり、そこには「ひたすらにおすがり申すお牛さま」と書かれていた。
いまでも天神様がどれだけ庶民から頼りにされているかを物語っている。

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ヒョウタンでナマズを取る:京都取材旅行第四回(11)

IMG_2395続いて妙心寺へ。ここの塔頭・退蔵院では如拙の瓢鮎図の複製を公開している。
遠くには霞む山。手前には川が流れていて、数本の笹のようなひょろっとした木が生えている。川を泳いでいるのは一匹のナマズ。そのナマズをじっと見ている男がいる。手にヒョウタンを持って。この男、いったいどうしようと言うのか。

この絵は足利尊氏の命で、山水画の始祖とされる如拙が描いた。
そして、絵の上部には大勢の人の漢詩が書かれている。これは、足利義満が京都五山の禅僧31人にこの絵の解題をさせたものだという。
ヒョウタンでナマズを押さえるとは、なかなかいいアイディアだ。もっとうまくやりたいなら、ヒョウタンに油を塗っておくといい、などナマズだけにのらりくらりとした回答が書かれているようだ。

奥には狩野元信作の枯山水の庭がある。元信は狩野派の始祖、正信の子で、狩野派の基礎を作った。絵師の元信が作庭?という感じもするが、石を豪快に使っているが、全体に繊細で優美な感じがし、山水画をも思わせる。

退蔵院を出て妙心寺の法堂・天井の狩野探幽の雲龍図を見る。こちらは時間を区切ってお寺の人が説明してくれる。このときは髪を染めた若い女性が一生懸命に覚えたことをけなげにしゃべってくれた。

妙心寺は広大な敷地にたくさんの塔頭があり、塔頭の建つ敷地の間は塀に囲まれた細い小道になっている。そこを歩いていると、ふたりのお坊さんが何やら喋りながら我々を追い抜いていった。昔からの土塀に囲まれた石敷の小道を歩く後ろ姿の僧侶はまさしく中世そのものだった。

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雅な仁和寺:京都取材旅行第四回(10)

IMG_2358翌朝、車に乗り込み、カーナビに妙心寺を設定。商店街を通らさせられそうになるなど、ナビに振り回されながら着いたところは仁和寺。妙心寺のあとに行こうと思っていたので、別に問題はないのだが、ナビなどに頼らず自分で地図を確認して走らせていればもっと早く着けたはずだった。

ここに来るのは10年ぶりだ。
仁和寺は平安時代に宇多法皇が入寺して以来の門跡寺院として寺格の高さを誇ってきた。
中でも宸殿を中心とする黒書院、白書院などの建物群は門跡寺院としての風格を感じさせる。くぎ隠しなどの飾りは繊細だし、手すりひとつにしても職人の最後まで手を抜かない徹底した仕事のこだわりを見て取れる。
勅使門の扉に取り付けられた透かし彫りなどは微細な美しさがあり、こんな繊細な細工が外にあって壊れないのかと思ってしまうほどだ。

白書院から見えるのは、白川砂を敷き詰めた南庭、宸殿からは池を中心とした北庭を見ることができる。北庭の奥には飛濤亭と名付けられた茶室が木立の中にたたずんでいて、ちょっとした山中の景色を作り出している。背後には借景として五重塔が見え、景観上のアクセントになっている。

仁和寺の二王門は阿像と吽像の仁王が、中門は持国天、多聞天がそれぞれ門を守っている。
その中門を抜けると左手に御室桜が広がる。もちろんいまは9月なので桜が咲いているはずはないが、この遅咲きの桜は京都の春の最後を彩る。
低木のこの桜のことを、口の悪い京都人はおたふく桜と呼ぶ。そのこころは、花(鼻)が低いから。

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狸谷山のたぬきたち:京都取材旅行第四回(9)

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詩仙堂の脇の急坂をさらに上っていくとようやく石段下に到達した。ここに車を置き、瓜生山の山腹の狸谷不動院に向かって長い石段を上る。石段の両脇には大小さまざまな狸の置き物が置かれている。
9月になってもまだまだ暑く、汗だくになりながらようやく平らなところに出た。見上げると清水寺の舞台のように崖に賭け造りの本堂が張り付いている。右奥には宮本武蔵も修業で打たれたという滝が流れ落ちる。
再び石段を上り、本堂の舞台上にあがった。舞台の端からは京都の町並みが見える。ただし、いま上ってきた石段のところに木々が生えていない部分がV字型になって見えるだけで、他の方向は木々に覆われ見えない。正面には西山、そして町中にこんもりとなっている低い山は船岡山だろうか、そうした山々と京都市街が西日に照らされている。すべてが見えないためなのか、見ていていとおしい気持ちでいっぱいになった。

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岩倉具視旧宅:京都取材旅行第四回(8)

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実相院の近くにある病院の裏手に岩倉具視が幽棲された旧宅がある。
幕末、具視は公武合体をすすめ、皇女和宮の将軍降嫁にも尽力したが、それがために倒幕急進派から睨まれることになり、官職を辞し、剃髪したうえでこの家に住んだ。
具視を頼って、大久保利通、坂本龍馬、中岡慎太郎など数々の志士がこの家を訪れたという。

もともとは大工藤吉の家だったものを買い受けたものだが、さすがに狭すぎると思ったのか、のちにもう一棟増築している。玄関もこの小さな家には不釣り合いな感じのちょっと立派なものが取り付けられている。

隣に壁にレンガを張った洋館風の建物が建っている。最初に見たときは扉が閉まっていたが、今は開いている。受付のおじさんが開けてくれたものらしい。
中に入ると資料館だった。
具視が身に付けていたものや、資料、絵画などがある。
晩年、病にふせっている具視を明治天皇が見舞っている油絵もある。明治維新後の東京の邸宅の和室の部屋にふとんにふせっていたところを明治天皇が見舞いに来たために、ふとんから半身を起こし、おじぎをする具視の姿が描かれている。
明治天皇はよく教科書などで使われる洋装の写真で立っている姿とそっくりで、この写真を見て描いたのだろう。
洋装の天皇が和室の畳に立っている姿にはちょっとした違和感を感じた。
今見ても違和感があるのだから、当時の明治政府が日本を欧米化させていき、景色が洋風化していった時代の日本人は相当に違和感を日々感じ続けていたことだろう。


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岩倉門跡を訪ねる:京都取材旅行第四回(7)

IMG_2271京都の北には鞍馬山がそびえる。その手前の京都盆地の平らな土地がそろそろ鞍馬山への山へと盛り上がっていくきわのあたりに岩倉という地がある。
実相院はこうしたやや辺鄙な場所にある。辺鄙な場所にあるが、この寺はれっきとした門跡寺院だ。
門跡寺院とは代々、皇族や公家などの師弟が入寺し、門主となった。だから、寺には雅な雰囲気がつきまとう。
実相院も他の門跡寺院と同様に高い塀で囲まれ、その塀には寺格の高さを表す五本の白線が引かれている。この寺が開かれた頃は紫野にあり、その後、御所近くに移ったあと、応仁の乱の戦火を避けていまの地に移転したとされる。

大玄関から受付を経て中に入る。
よく見ると建物はあちこちにつっかえ棒がしてある。
今の建物は義周法親王が門主になった江戸時代初期に、大宮御所の建物の一部が下賜され、移築したものだ。この大宮御所とは東山天皇の中宮の住まいだったもので、今では現存する数少ない女院御所とされる。

室内の襖絵のほとんどが狩野派によるもの。そうした豪華な襖絵に囲まれた部屋から庭を眺める。池の縁からはカエデの大木が大きく枝を伸ばしている。その周囲は苔が覆っていて美しい。

この寺を有名にしている名物が床緑だ。磨かれた床に庭の木の緑が映えている。秋に紅葉すれば床もみじだ。この時は紅葉には早かったため、床緑だった。
床から視線を上げると正面にはやはり狩野派の襖絵があり、この2枚の襖が額縁のようにして床に緑を映えさせている木を囲んでいる。そこに描かれているのは深山幽谷の滝で右側の襖はひとりの老人がその滝を見上げ、左側の襖はふたりの子供を連れた老人が描かれる。

建物の縁側をぐるっと回ると先ほどの庭とはまったく趣の違う枯山水の庭がある。
こちらにも建物につっかえ棒がしてあるのが気になる。

屋根は瓦が重そうに乗っている。背後は山に囲まれ、どちらかというと瓦よりも茅葺きの方が似合いそうな建物だが、江戸時代の御所の移築物だとするとやはりもとから瓦屋根だったのかもしれない。

数年前にこの寺で岩倉実相院日記という日記が発見された。これは実相院の門主に使えた坊官が日記としてまとめたもんで260年分の分量があるという。
その日記を抜き書きしてまとめた本を売っていたので、購入。
なかなか面白そう。さっそくあとで読んで見よう。

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将軍塚から見下ろす京都の街:京都取材旅行第四回(6)

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翌朝、将軍塚大日堂へ向かう。東山ドライブウェイを走らせるとほどなくして大日堂に到着した。

将軍塚は都を平安京に移したとき、王城鎮護のために高さ2.5m ほどの武将像を土で作り、これに甲冑を着せ鉄の弓矢と太刀を持たせ、京の方向を向かせて埋めた場所だという。
平安京に遷都した794年はまだまだ古墳時代的習慣が残っていたのだなと思う。

この塚は国家に異変があるときには鳴動してこれを知らせたと伝わる。

その地に建てられたのが大日堂で、青蓮院の別院となっている。
大日堂には石の大日如来が祀られている。もともと外に置かれていたもののようで、磨耗し、目鼻立ちははっきりとしない。

境内は庭園として整備され、北と西に展望台がある。
このうち西展望台は鉄骨が組まれた上にあり、階段で上がっていく。前に行くに従って傾斜するスタジアム風の展望台で大勢の人が来ても景色を楽しむことができるようになっている。
景観を売りにして、ついには鉄骨の展望台まで建ててしまった。ここまで展望で頑張っている寺院も珍しい。
眼下には鴨川の流れが見える。鴨川沿いに樹木が茂っているので、川の道筋がよくわかるのだ。大文字山もほぼ正面に見える。両方の展望台からは五山のすべてが見えるらしい。五山の送り火の時にはこのスタジアムも人でいっぱいになるのだろう(特別料金らしいが)
船岡山も見える。マンションもついに工事を強行しているらしいが、どうなることか。
それにしても京都はコンクリートのビルでいっぱいだ。
かつての瓦の屋根が街を覆っている姿が見られたら、さぞ心が潤んだことだろう。

庭園内には石と白砂、植栽を組み合わせた枯山水の庭がある。石や木の置き方など、うるさすぎず、静かすぎない、ほどほどさがあり、見ていて楽しい気分になってくる。名のある作者の庭なのだろうかと、調べて見ると昭和の小堀遠州とも言われた中根金作氏の手によるものだった。

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金蔵寺から見下ろす京都の街:京都取材旅行第四回(5)

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京都の西南に標高642mの小塩山という山がある。この山の山頂には淳和天皇陵がある。これだけ高い山の上に天皇陵があるのは珍しい。

この山の中腹に金蔵寺という寺がある。この寺は養老2年(718)に開創された。平安京遷都の折には王城鎮護の西の要とされたという。
平安遷都以後,この寺は大きく栄えるが、応仁の乱によって殆どが焼失する。現在残っている建物は,元禄6年(1693)徳川五代将軍綱吉の母桂昌院によって再建されたものだ。

その金蔵寺に向かう。道は舗装道路から完全な山道になり、車のすれ違いが困難な細い道となった。この寺に行く理由は、ここから京都市街を見下ろせるらしいということを知ったからだ。
本当に見下ろせる場所があるのかどうかは実は行って見ないとわからない。
途中何台かの車と道を譲りあいながらすれ違う。本当に行き着けるのだろうかとどきどきしながら車を走らせるが、無事に到着。
山の中の寺にしてはかなり立派な山門があり、門の番人である仁王像が訪問者を睨んでいる。
そこから急な石段を登ると本堂に到達する。

本堂に祀られるのは十一面観音。この像はこの寺を開いた隆豊禅師と地元の神である向日明神の合作で天狗の爪で刻んだという伝説があるそうだ。中を覗き込むが厨子は閉まっていてその姿を見ることはできない。

お堂の周囲をうろうろするうちに不安になってきた。木々に遮られ、下界を見ることができない。ここから京都を見下ろせないとなると、別の場所を探すか、別の記事で埋めるか、別の寺社のページを増やすかしなければならない。どうするべきか。頭の中で台割を思い浮かべる。
しかし、ほどなくして「見晴らし台へ」と書かれた案内看板を見つけた。その方向に向かっていくと、割と最近作られたと思われる台があり、ここから京都の市街地や向日市などが見下ろせた。京都タワーもはっきり見えた。
その景色を撮影し、再び同じ山道を下って下界に戻った。

そこから京都市内に戻り、別件で頼まれていた御霊神社の脇に立つ応仁の乱の石碑を撮影して、その日の予定は終了。

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応挙の寺とカーナビ:京都取材旅行第四回(4)

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翌朝、車で亀岡市に向かう。ここには円山応挙が幼い頃に仏門に入り修業した金剛寺がある。京都縦貫自動車道亀岡ICを降り、しばらく国道を行く。途中、カーナビに従って左折するとそこはあぜ道レベルの狭い道だった。田んぼに落ちないようにそろそろと車を走らせていると、集落の中の細い道に入った。車幅ぎりぎりの道の脇には溝があり、助手席の連れに溝に落ちないよう下を見てもらいながら、車を前進させているうちに、目的の金剛寺に到着した。

金剛寺は応挙とのゆかりの深い寺であるため、別名応挙寺と呼ばれている。
応挙は先に書いたように幼い頃にこの寺に入るが、修業せずに絵ばかり描き、絵の才能を住職に認められ、京に登って絵の修業をし、才能を開花させた。

門は二階部分が鐘楼となっていて、屋根の上にはしゃちほこのようなものが乗っている。頭でっかちなのだが全体的に繊細さを感じさせる。寺はすごく小さい。応挙晩年の絵があるそうなのだが、非公開。話を聞かせてもらおうかと呼び鈴を押してみるが誰も出ず。ああ、ここで応挙は幼少の時代を過ごしたのか、と思いながら建物の写真だけ撮影して、引き返す。

帰りはナビを無視して別ルートを行く。すると、あぜ道よりと比べるとずっと広い道があり、途中には金剛寺の案内看板もあった。この道を知っていれば行きに苦労することはなかったのに。距離的に最短ルートを出しただけなのであろうナビには悪いと思ったが「ナビの奴めー」とののしりつつ、次の目的地に向かった。

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宗達の杉戸絵と血天井:京都取材旅行第四回(3)

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三条駅から京阪電鉄に乗り、七条駅に移動する。ここから歩いて養源院に行った。
三十三間堂や京都国立博物館のすぐ近くにある。この辺は何度も訪れているが、養源院は初めてだ。ここを訪れることがなかった理由は血天井があること。何だか気味が悪くてこの寺に近寄ることがなかった。

寺の門をくぐると直線の石畳が続く。そこをまっすぐに歩くと本堂に突き当たる。塀には寺格の高さを表す白い五本線が引かれている。
もともとは秀吉の側室、淀君が父の浅井長政の追善のためにこの寺を建立した。しかし、ほどなくして火災にあい、その後、徳川秀忠が伏見城の遺構を移築したのが今の本堂であるとされる。以来徳川家の菩提所となり、歴代将軍の位牌が祀られる。本堂玄関には葵の紋の幕が張られている。

玄関を入ると俵屋宗達の八方睨みの獅子が描かれた杉戸絵を見ることができる。ここで拝観料を支払うと寺の人が説明してくれる。この寺には襖絵12面、杉戸八面に宗達の絵が描かれている。奥の杉戸絵には有名な白象の絵が描かれている。それぞれ説明してくれるのはいいのだが、説明が終わってからも絵をじっくり見ようとすると、「どうぞこちらへ」と言われて、次の説明場所への移動を促されるので、気が済むまで見ることはできなかったのが残念だった。

本堂の廊下には血天井が張られている。これは石田三成が徳川家康に対して挙兵したとき、最前線にあった伏見城を任されていた鳥居元忠以下の武将らが支えきれず、最後に自刃した廊下の板の間を、この寺の天井にしたものだ。
その天井の血のあとを説明のおばさんは竹の棒を使って指しながら、ここは胴体で、ここが足などと事も無げに説明する。こんな風に事務的に棒で指されては、ここで切腹した人たちも浮かばれないだろう。
ちなみに、宗達の絵はこの血天井の主の霊を慰めるために描かれたという。


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秀次の悲劇:京都取材旅行第四回(2)

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豊臣秀吉は実子に恵まれなかったため、秀吉の姉「とも」の子として生まれた秀次を養子とした。秀次は秀吉から関白太政大臣の地位を譲られ、その栄華を極めていた。
しかし、秀次にとっての風向きは側室の淀君に秀頼が生まれたこと頃から変わってくる。秀頼が生まれて2年後、秀吉は秀次に謀反の罪を着せ、高野山青厳寺にて切腹させる。
その後、まもなく秀次の正室、34人の側室、4人の子の合計39人が三条河原で処刑された。
刑場には秀次の首が置かれ、その前で死出の晴れ着を着た子女らがひとりずつ殺されていったという。
遺骸は刑場に掘られた穴に投げ込まれ、あとには大きな塚が築かれ、その頂上には秀次の首を収めた石びつを据えた。

その塚の位置に作られたのが瑞泉寺だ。
境内には東屋のような建物があり、そこには、このとき処刑されたすべての女性や子供の肖像が掲げられていた。女性は皆、若く美しい装束に身を包んでいる。それだけに痛ましさを感じさせる。
奥には当時の塚が移されて安置されていた。
あまりの悲惨な話に思わずろうそくに灯を灯し、線香に火をつけて、その冥福を連れとともに祈った。

寺は、木屋町通に面した賑やかな人通りの多い通りに面しているが、境内に入ってくる人はいず、少し冷たい空気が漂っているようだった。

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京都へ、そして信長の夢の跡:京都取材旅行第四回(1)

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本業の仕事を夏休みとし、その期間を今年の初めから進めている次期京都本の制作のための取材旅行にあてることにした。今回は、5泊6日。朝9時頃に車で東京を出発。途中、事故渋滞で2時間ほど余計にかかり、7時頃京都に到着。京都東ICから京都入りしたときに最初に目に入ったのは外壁が黄色と黒の縞模様で塗られた居酒屋。2年前に車で京都入りしたときには、ちょうど阪神タイガースの優勝の日でその居酒屋の前には大勢の人がたむろし、パトカーも外に止っていたが、今回は静かなものだった。

翌朝、宿からほど近いところにある本能寺に向かう。織田信長が明智光秀に襲撃され自害した本能寺はいまの寺町とは違う場所にあり、南北を蛸薬師通・六角通、東西を西洞院通・油小路に挟まれた場所にあった。もとの本能寺の位置には石碑が2つ立っているが、これは蛸薬師通の南の旧本能小学校の敷地外側にある。かつて本能寺の寺域は、蛸薬師通の南まで伸びていたという説があったためだが、2003年の発掘にで旧本能寺の南端は蛸薬師通であると確定されたため、いまの石碑の位置は少しずれていることになる。

いまの本能寺は豊臣秀吉の命令によって移転させられた。

寺には宝物館があり、寺に残される名品の数々が展示されている。
始めに目に入ったのが三足の蛙をかたどった香炉。前脚が2本、後脚が1本の蛙で、目の上にはげじげじの眉毛のようなものがついていて、かわいらしい。背中には神の使いなのか、不思議な格好の小さな生き物を乗せている。本能寺の変の前夜、危険を知らせるかのように突然鳴いたと伝わっている。

狩野派の絵も多く展示されている。この寺にこれらの絵画が残っているのは、狩野家が日蓮宗を信仰していたために、同宗のこの寺に納められた。

信長はかつて4度、この寺に宿泊している。信長がこの寺に泊まった理由としては寺の資料によると、3つあるという。
1つ目は、本能寺第12代貫首日承聖人との交際にあった。日承聖人は信長に日蓮宗の教えを説いていたという。また、聖人が伏見宮家出身だったため、天皇家との繋がりを築くためという理由もあったという。
2つ目は、当時の日蓮宗は種子島にも信者を持ち、そのルートを使って鉄砲、火薬を手に入れることができたということ。
3つ目は、本能寺の周囲に堀が築かれ、高い塀を作っていたことがある。これは日蓮宗の対立勢力であった比叡山延暦寺に寺を焼かれた経験などから自衛のためにこのようにしていたらしい。

信長は4度目の宿泊の時に、明智光秀に襲われた。

本堂裏手には信長の墓があり、その隣にはその時にともに亡くなった家臣や関係者が祀られている。この墓は旧本能寺の地に信長の三男、信孝が遺骨を収めて冥福を祈ったものだが、寺の移転にともなってこちらに移された。

ちなみに本能寺の「能」は正式には、IMG_2147と書く。これは「能」の寺に「ヒヒ」という文字があり、何度も火災にあったこの寺の僧侶がそれを嫌ってこのように書くようになったという。

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