京都取材旅行記第三回

動く襖絵:京都取材旅行第三回(9)

P1030097山科駅を出たあと案内標識に従って京阪電鉄京津線の線路沿いの道を歩くと早くも「毘沙門堂参道」と彫られた石標が立っていた。その先を左に折れ、JRの線路下をくぐるとその先はひたすら上り坂となる。
地図で見るとこのあたりは大文字山の麓にあたる。
東山三十六峰は比叡山から始まり、山科の北にそびえる大文字山(如意ヶ岳)を経て、山科の西にそれて稲荷山で終わる。山科の東側には行者ヶ森、醍醐山が立ち並ぶ。山科の南側は山科川の流れに沿って削られ、三方を山で囲まれた平地となっている。
京都も三方を山で囲まれているわけで山科の地形はよく似ている。
山科がミニ京都だとするなら、毘沙門堂のある場所は京都で言えば、鞍馬寺の位置に相当すると言ってもいいかもしれない。

毘沙門堂はかつては京都の出雲路にあった。賀茂川と高野川が合流するあたりのことをむかし出雲路、あるいは出雲郷と呼んだ。いまも出雲路橋という橋が賀茂川にかかる。
実は、このあたりは鞍馬口ともいい、鞍馬街道の始点でもあった。
こういう因縁から意図的に山科のこの場所が選ばれたのかもしれない。
山科に移転後に門跡寺院となった。

ひたすら長い上り坂を上る事、10数分。ようやく毘沙門堂の石標が見えてくる。が、しかしその先には急な長い階段。長い長い坂を上ってきた我々は最後の試練にあえぎながらその階段を上った。
上りきったところには仁王門があった。阿吽の二体の像が訪れるものに睨みを利かせている。

本堂の参拝だけなら無料、その奥の宸殿などを見るなら拝観料500円が必要だ。
本堂の参拝が無料なのはいまもこの寺が多くの人に信仰されている証拠だろう。
本堂参拝まで拝観料を取る観光寺院が多い中、この寺は本来の仏教と人々の関係について考えさせられる。

本堂に祀られるのはこの寺の名前の由来ともなっている毘沙門天。北方の守護神である。
鞍馬寺も京都を北方から守護するという意味で毘沙門天が祀られているわけで、そうなるとこの2つの寺の役割は同じなのかもしれない。

本堂の入り口には常香盤があった。灰の上の型に沿って木片で押し込んだお香の粉を燃やすというものだ。昔、東寺で見たことがある。本堂を出ようとすると、受付にいたおじさんが飛んできた。我々が熱心に常香盤を見ていたのを見ていたようで、聞いてもいないのにその常香盤の説明を始めた。説明好きな人のようだ。

本堂の脇を通って御霊殿に行く。ここには阿弥陀如来が祀られる。天井には龍が描かれている。狩野主信の作。

そして宸殿へ。始めに入ったのが御成之間。一段高くなった畳が置かれている。天皇が訪れたときにここに座るというものだ。
その隣の部屋は老人の間と名づけられている。ここに面白い襖絵がある。四角い机を2人の老人が囲んでなにやら談笑しているという絵なのだが、この机が見る位置によってその角度が変わって見えるのだ。
ふすまに対して右端にたったときには机は見ている人間に対してほぼ直角の角度で見えるのに、机に近づいていくと、その机が斜めに傾いていくように見える。
これは面白い。逆遠近法というらしい。よく見ると机の向こう側の辺の方が広がって描いているようだ。
宸殿の襖絵はいずれも狩野探幽の養子の狩野益信の作。

宸殿をぐるっと回ると池の向こうに観音堂という小ぶりな建物が見える庭が広がっている。
静かで落ち着いたいい庭だ。
この庭を見ながらまったりとしていると、さきほど常香盤の説明してくれたおじさんがやってきた。
「動く襖絵はわかりましたか?」
と聞く。老人の間にしか、その動く襖絵の説明がなかったので、動くのはあの机だけなのかと思ったが、実は宸殿の襖絵はどれもこの原理で描かれている。
「船に乗った人の顔を見ながら、そっちからこっちに歩いてみてください。顔がずっとこっちを見てるでしょう」
ああ、本当だと驚く我々。
「じゃ、今度はこっちの絵」と説明しながら我々の驚く顔を見て喜んでいる。
やはり説明が好きな人らしい。
あらためて説明してくれたが、最初に入った御成之間の襖絵もそういう騙絵ばかりだった。
ここは隠れた洒脱な遊び心満載の寺だった。

(京都取材旅行第三回おしまい)

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小町の罪:京都取材旅行第三回(8)

IMG_2121中世の日本人は小野小町の話が好きだった。
小野小町は六歌仙、三十六歌仙に選ばれるほどの優れた歌詠みであり、絶世の美女でもあった。
その絶世の美女をめあてに何人もの男が言い寄るが、一切男を受け付けなかったという。
中でも深草少将のあわれな話はよく知られている。
小町を慕う深草少将は、小町から百夜通い続けたら思いを遂げさせてくれると言われ、以来、せっせと毎晩通い続けた。小町は榧の実を糸に綴って日にちを数えていたが、99日目の晩の雪の日に深草の少将は榧の実を握ったまま倒れ、そのままこの世を去ってしまった、という話だ。

花の色は
うつりにけりな
いたづらに
わが身世にふる
ながめせし間に

これは百人一首に載っている有名な歌だ。
花の色は褪せてしまったなあ。我が身をむなしくこの世において、長雨を見て物思いに耽っている間に。
という意味だ。
こういう歌があるためなのか、老後、容色が衰え乞食となってさまよう小町を物語る「卒塔婆小町」という能が作られるなど、かつて絶世の美女だった小町が衰えた姿をさらしているという話がいくつも作られている。こういう話を中世の日本人は面白がった。仏教の無常観を説明するのにこの話はちょうどよかったということもあったのかもしれない。

随心院のある小野は小野氏が勢力をふるった地であった。
小町にとって書家の小野道風は従兄弟であり、小野篁(たかむら)はおじいさんにあたる。
祖先には遣隋使で知られる小野妹子がいる。
小野篁は、六道珍皇寺の井戸から地獄へ通ったという不思議伝説の持ち主であり、小野道風は柳に飛びつこうとする蛙を見て、自身もがんばろうと決意し、書の達人になったという話が知られている。花札に傘をさす人物と柳と蛙が描かれた札があるが、あれが小野道風である。

随心院は、小町の邸宅跡だったとも伝えられ、ここには小野小町が化粧に使ったという井戸や、深草少将が来るのを数えたという榧の実などが残っている。寺の裏側には小町に届けられた大量の文を埋めたという文塚もある。
もっとも、小町の出身地や終焉の地は全国各地にあり、どれが本当なのかわからない。

この寺には小町伝説ばかりでなく優れた仏像も安置されている。
本堂には、少しの曇りなく磨き上げられ金色に輝く密教法具が整然と置かれている向こうに、横一列に10体ほどの仏像が並ぶ。
本尊は鎌倉時代の如意輪観音。
その隣には定朝作の阿弥陀如来像。体からほどよく力を抜いて静かに瞑想して座る姿が美しい。
如意輪観音を挟んで反対側には快慶作の金剛薩捶(こんごうさった)像。片手に五鈷杵、片手に五鈷鈴を持つ密教像だ。精緻な装飾の施された宝冠を被り、宝冠から下げられたリボン状のひもは胸まで下がり、気品高い像となっている。快慶の作品らしくきりっとした才気溢れる顔をしている。

この寺で毎年3月には小野小町と深草少将に扮した少女たちが踊るはねず祭りが行われる。はねず祭りは深草少将の百日通いの話をモチーフにしているが、少し違っている。
少将は九十九日の夜、雪がひどいのを理由に他の人に代わってもらった。ところが、その夜に限って小町は、あと一日足りないけれども、と言ってその人を家に入れてしまう。そのため少将が代人を立てたのがばれてしまい、ふられてしまった、というずっこけた話になっているのが面白い。

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庶民派門跡:京都取材旅行第三回(7)

IMG_2082翌朝、地下鉄東西線に乗り山科の先の小野駅で降りる。
目指すは勧修寺。門跡寺院だ。他の門跡寺院同様やはり高い白い塀で囲まれている。
塀に沿って歩いているとやがて門があった。受付で拝観料を払うとチケット代わりに絵葉書をくれた。ここに写真と説明が載っている。

境内奥へと入っていくと大きな池があった。その池の端には観音堂が建つ。
2階建ての建物で、屋根には鳳凰が載り、屋根の端が大きく天に向かって反り返る姿が美しい。
中には白塗りで細身の気品がある観音像が祀られる。

池の周りにはカメラを持った人たちが大勢群がり、しきりに写真を撮っている。
池には紅いスイレンが浮かび、カキツバタも淡い紫の可憐な花を咲かせていた。少しはなれたところには白鷺らしき大きな鳥が池の中でたたずんでいる。
竹の杭で囲まれた一角に「撮影禁止コーナー」と書かれた、鑑賞する人用の場所が設けられている。普段からどれだけカメラマンが来るかが、このコーナーが作られていることからもわかる。
実際、ほとんどが撮影に夢中になっている人ばかりで、ただぼんやりと眺めているだけの人は数えるほどしかいない。

池は氷室の池と呼ばれ、かつては毎年一月二日にこの池に張る氷を宮中に献上し、その氷の厚さでその年の豊凶を占ったとされる。

池の裏側にも行くことができるが、途中には
「この先行かれるのはご自由ですが大いに危険
と手書きで書かれている。

皆、その看板を一瞥するだけで、気にせずにくぐって行く。
寺としては責任は取れないけど、禁止もしない。自己責任で行きたい人はどうぞということだろう。
さきほどの撮影禁止コーナーといい、微妙な心遣いのある寺だ。

我々も奥へと進んだ。奥には石仏がいくつも池の周囲に置かれている。
番号と寺の名前の書かれた石仏もある。たとえば、第八番長谷寺、十一面観音などと書かれている。
西国三十三所のことのようで、この番号の順番にお参るすることで実際の三十三の寺を廻ったことになるということだろう。

奥の林には鷺の巣もあり、そこから鷺が飛び立ったりしていた。
やがて池の周囲を一周してもとの場所に戻ってきた。
特に危険なことはなかった。

池を離れ、境内の奥に進む。弘法大師の像があり、その周囲に89個の石を埋め込んである。
その石には1から順に88までの数字が書かれている。そして最後は高野山と書かれる。
この石のひとつひとつは四国八十八所に相当する。踏んでおまいりしてくださいと書かれているので、ひとつずつ踏みながら歩いた。最後に高野山の石を踏んで一周した。
格式ある門跡寺院らしくなく庶民的なにおいがして面白い。

境内の外に出て菊のご紋の垂れ幕のある大きな門の前に張り紙がしてあるのをツレが発見した。
近寄ってみると、「この前Pどうぞ」とこれも手書きで書かれている。
こんな立派な門なのにその前が駐車場として使われている。
やはりかつて皇族が入った門跡寺院もいまやすっかり庶民的な寺となっているようだ。

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鹿おどし:京都取材旅行第三回(6)

IMG_2066圓光寺からすぐ近くの詩仙堂に向かう。このあたりまで来ると急に人が多くなる。
昔、詩仙堂を訪れたときはこんなに人で混雑はしていなかった気がしたが、と思いながら瀟洒な門をくぐり、受付で靴を脱ぐが、靴置き場はすでに靴でいっぱいだった。

詩仙の間に入ると三十六人の詩人の肖像ががかかっている。これは日本の三十六歌仙ではなく、中国の詩家をここを建てた石川丈山が選定したもので、この詩仙の間があることからここが詩仙堂と呼ばれる。
詩仙堂と呼ばれているが、正しくは凹凸窠という。できぼこした土地に建てた住居という意味あいでこう名づけた。詩仙堂とはそのうちの一室に過ぎないと、パンフレットには書かれている。

石川丈山という人はもともと徳川家康に仕えた武士だったが、大阪夏の陣に参加した際、先陣争いは禁止されていたにもかかわらず一番乗りを果たす。戦後、軍令を破ったことの責任を取って蟄居し、そのまま出家して妙心寺に入る。その後、学問に励み文人として名を残した。
実はこの人は幕府のスパイだったという説がある。これは何も最近になって言われたわけではなく、江戸時代には既に言われていたらしい。
で、何をスパイしていたか、というと天皇や公家である。
当時の天皇である後水尾天皇は修学院離宮を造ったが、その、後水尾天皇を監視するために修学院離宮からさほど離れていない場所に詩仙堂を造ったのだというのだ。
詩仙堂には二階の部分に嘯月楼という楼閣が造られているが、ここから修学院離宮や都を監視していたとか、ここからのろしを上げて合図をしていたという説まである。

事の真偽はいまだ不明だ。
嘯月楼の下の部屋は大きく開け放たれ、庭を眺めることができる。
すでに大勢の人がその部屋の畳に腰を下ろして庭を眺めている。
我々も人の隙間を縫って、場所を確保し、腰を下ろした。

この部屋からは、さほど広い面積ではない白砂の敷かれた庭が見え、その向こうには丸く刈り込んだサツキが植えられている。サツキの向こう側は地面が大きく下に落ち込んでいて、さらに”谷”を挟んだ向こうの林が見えるようになっている。

建物を出て庭にも降りられるようになっている。
靴は入り口で脱いできているので、ここでは用意されたサンダルを履いて、庭に降りる。
すぐに地面は大きく下り、下っていく斜面には石段がつけられている。左右は丸く刈り込まれたサツキに囲まれ、下りている間は周囲が見えないようになっている。ここを下りると鹿おどしがある。そもそもこれは石川丈山が考案したと言われている。

サツキをツツジと勘違いしたのかおばさんのグループが、もう花は終わったのね、などと何度も輪唱のように同じ事を言っている。そこへ、庭の手入れをしていた人が花はこれからですよ、と言うと、今度は、ああ花はこれからなのねと、再び輪唱で皆が口々に言っている。
ただでさえ人が多くて辟易としている上にうるさくてたまらない。

だいたいこの庭は何だ。その日、曼殊院、圓光寺と第一級の庭ばかりを見てきた我々はだんだんといらだってきた。気の利いた灯篭などのアイポイントはなく、ただ丸く刈り込んだサツキばかりが目立ち、どこにでもあるような植物園みたいな光景が広がっているばかりで面白みがない。(灯篭はひとつだけ庭の片隅に置かれているけれど)
庭はかつての姿をとどめていないのかもしれない。
庭の一番下には庭に作られた小川に石の橋がかけれらていたが、あのあたりは唯一、野趣味があっていいと思った場所だった。
サツキを饅頭みたいに丸く刈り込むのは昔からやっていたのだろうか。あれはどうにもいただけないと思うのだが。

ちなみにこれを書いている5/23は石川丈山が90歳の天寿を全うした日。
けなしたままで終わるわけにはいかないので、最後に詩仙堂の入り口の門を褒めておきたい。
竹で組まれた垣根に囲まれた瀟洒な門とそこを登る石段、そこからまっすぐに続く小道。ここはいい。


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応挙の竹林:京都取材旅行第三回(5)

IMG_2042曼殊院を出ると行きとは逆にひたすら下り坂になるので、歩くのが楽だった。
向かっているのは圓光寺。
歩いている途中、ツレがあるものに気が付いた。よくある工事現場の看板で「ごめいわくをおかけしますが…」と書かれ、頭を下げている工事の人のイラストが描かれているのだが、よくみると、黒のマジックであごのまわりに点々が描かれ、無精ひげが生えている。めがねをかけた人なのかと思ったら、これもマジックで目の周りを縁取ったものだった。
周りには、朽ちかけて顔の判別できない石仏が何体かあったが、ここにも黒のマジックで顔が書いてあった。
あまりに朽ちているから、誰かが顔を描いたのだろうか、と思ったが、よく考えてみれば子供のいたずらか。

そうこうしているうちに圓光寺に着く。それほど大きな寺ではないが、隣には広い駐車場が用意してあった。
紅葉の名所として知られているので、秋には人でにぎわうのだろう。

もちろん、いまの新緑の季節もいい。
緋毛氈の敷かれた縁側に座って庭を眺める。庭を通り抜ける風が心地いい。
なかなかいい庭である。
庭の中央にはカエデらしき木が植えられれ、その周囲は視界が開けるように刈り込まれ、左には重量感のある灯篭が置かれる。庭の奥に行くにしたがって、木々が多くなり、背後が覆い隠している。上品であるけれど、それだけでなく野趣もあり、奥行き感もある。どうだ、すごい庭だろうという主張はないけれども、少しも手を抜いたところがなく洗練されている。
繰り返しになるが、いい庭なのだ。

境内を奥に進んでいくと竹林がある。この竹林を見ながら丸山応挙が描いたとされる雨竹風竹図がこの寺に残されている。向かって左が風竹図、右が右竹図に分かれる屏風絵で、風竹図は風に吹かれる竹、雨竹図は雨に打たれて葉が下を向き、全体に雨にけぶった感じがよく出ている。

圓光寺第五世魯山玄璠という人は江戸時代中期の人で画才に秀でていた。この人はそんな才能から画家との交流があったらしい。そして、この寺でいわゆるサロンを形成していた。その中に丸山応挙もいた。

寺の本尊は運慶作と伝わる千手観音像。小ぶりな像で静かに合掌している。運慶かどうかはわからないが、鎌倉時代の仏像だろうという感じはする。

庭園入り口には水琴窟がある。澄んだ音がよく響く。仏教に妙音という言葉があるが、こういう音のことを言うのだろう。

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ミニ桂離宮:京都取材旅行第三回(4)

IMG_2004翌朝、5番系統の市バスに乗り、一乗寺清水町で下車。ここから東山の方向に向かって、ずっと上り坂の道をひたすら歩いていく。住宅街だったのが、だんだんと畑地が増えていく。最後に長い直線の上り坂を上り詰めたところに、曼殊院門跡があった。

曼殊院の門の手前には弁天堂がある。曼殊院の境内の外にあるようだが、曼殊院をこの地に開いた良尚親王が建立した。弁天堂というだけあって、当然池がある。ここの池にはよく肥えた鯉やたくさんの亀がいた。ここに30円で鯉のえさが置いてあった。ツレがさっそくそのえさを取って橋の上からばらまいていたが、すでに満腹なのかいまひとつ食いつきが悪かった。

ここ曼殊院も三千院などの他の門跡寺院同様に忍者でもなければ容易には忍び込めそうにないような、高い塀で囲まれている。
始めに庫裏に入る。入ると石造りの大黒天がある。甲冑を着て座っている。もとは外で雨ざらしにでもなっていたのか、石はかなり磨り減り、その表情はよくわからない。
横を見るとかまどがある。ここで食事の用意をしたのだろう。上にはかまどの神様を祀っているのか、神棚らしきものが据えられてあった。

庫裏から奥の建物に先に進んでいくと虎の間、竹の間、孔雀の間がある。
それぞれ襖に描かれたモチーフによってそのように呼ばれている。
孔雀の間は岸駒(がんく)という江戸時代中期の人が描いた孔雀に囲まれている。そこには善光寺如来が祀られていた。善光寺如来は長野県の善光寺の本尊であり、「牛に引かれて善光寺参り」で知られているように庶民信仰という感じが強い。そういうものが門跡寺院にあるのは不思議な気がした。
虎の間は狩野栄徳の作と伝えられる。動きのある虎の姿がよく捉えられている。部屋の入り口には虎が立っている竹を口で力強くくわえて倒し、こちらをにらんでいる絵が描かれる。これはやはり侵入者を威嚇しているのだろう。

渡り廊下を歩いていくと大書院がある。大きな建物だ。広く開け放された縁側からは枯山水の庭が見える。ちょうど庭の手入れの最中で、白砂に模様をつけている人がいた。
白砂の中には鶴島と亀島がある。鶴島には、樹齢400年の五葉の松がある。太い幹はねじれ、根元から伸びる太い枝は地面に横たわっている。
その松の根元にはひとつの灯籠が置いてある。灯籠の根元がふくらんで十字架を形作る織部灯篭だ。キリシタン灯篭とも言う。この寺では曼殊院灯篭と呼んでいる。この形の燈篭は小堀遠州が作庭で好んで使った。
この庭の作者が遠州というわけではなく、その好みを表現した遠州好みの庭だ。

大書院の欄間には卍くずしや月型などの大胆な意匠のものがはめ込まれている。引き戸には瓢箪、扇などが使われ、その先の小書院に行くと釘隠しに富士の形に七宝の雲を配した形のものが使われているなど、非常に凝っている。外の壁は朱に近い赤のあざやかだが上品な色合いの土壁で塗られている。

この地に曼殊院が建てられたのは、智仁親王の次男・良尚親王が出家したときだ。智仁親王は桂離宮を作った人物だ。曼殊院が作られたときには智仁親王は既に鬼籍に入っていたが、その遺伝子は確実に良尚親王に受け継がれていた。それが建物の至る所に見られる意匠の数々や庭に生かされている。

見どころが多く、実に面白い。これだけ楽しめる寺は他にあまりない。拝観料500円も安いくらいだ。

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梨の木:京都取材旅行第三回(3)

P1020858盧山寺の前の道をはさんで反対側には梨木神社がある。
祭神は三条実萬(さねつむ)と三条実美(さねとみ)の親子。

幕末に詳しい人なら三条実美はご存知だろう。
だが、その父、実萬を知っている人は少ないかもしれない。
私も知らなかった。

父、実萬は実美同様、尊皇攘夷派の公卿で、安政の大獄のときに弾圧され、落飾して一乗寺村に幽居のあと亡くなっている。
実美は父の意思を継ぎ、長州藩と組んで活躍する。幕府に攘夷を督促し、攘夷が決行されかけるが、文久三年八月十八日の政変により実美を初めとする七人の公卿が朝廷を追放され、長州に匿われる。いわゆる七卿落ちである。その後、王政復古とともに表舞台に復帰し、維新政府の中枢にあり続けた。

そのふたりがこの神社の祭神として祀られている。

ちなみにもともと日本の神道に死者を祀るという習慣はなかった。そもそも神道は死という穢れを嫌う。
生身の人間が神として祀られた最初は豊臣秀吉あたりからではないだろうか。

それ以前にも菅原道真が祀られているが、それは祟りをなす怨霊となったからだ。怨霊を鎮めるために神社を作り、怨霊となった道真を祀った。

明治政府は神仏分離によって、それまでの神仏習合を否定し、神道を国家の宗教として中心に据えた。天孫降臨の神話により神と繋がるとされる天皇が幕府に代わってこの国の元首となることをアピールしたかったからだろう。

そんなわけで明治政府の肝いりで実萬を祀るために、明治18年に、この梨木神社も作られた。かつてこの地は三条家の旧邸であり、梨木町という地名であった。神社の名前はそこからきている。
子の実美は大正4年に合祀されている。

境内には京都三名水のひとつ染井の水が湧く。
三名水は、ここ以外には醒ヶ井、県井があるが、このふたつは既に枯れてしまっている。
いくつもの容器を持ってきてしきりに水を汲んでいる人がいた。どんな味なのか飲んでみたい気もしたが、汲み終わりそうもないので、ここをあとにすることにした。
帰ってからインターネットで検索すると、ここの生水をがぶのみして腹を壊したという人がいる。飲まなくてよかったかもしれない。

門のところに置かれている賽銭箱は、三条実美の八女と孫の方の名前で奉納されている。平成9年の日付が書かれている。この年にまだ八女の方が生きておられたのかと思ったが、実美が亡くなったのは、明治24年(1891)。仮にこの年に生まれたとしても100歳を越えているので、八女の孫の方が奉納したということなのだろう。

ここは萩の名所としても知られ、秋には可憐な花で参道が覆われる。

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紫式部邸:京都取材旅行第三回(2)

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京都御所のすぐ東側に盧山寺という寺がある。
この寺は紫式部が住んでいたとされる場所に建っている。紫式部のひいおじいさんには藤原兼輔がいる。通称、堤中納言。三十六歌仙のひとりであり、優れた歌詠みだった。
このひとがいま盧山寺の建つ場所に邸宅を建て、紫式部もここに住み、源氏物語を書いたとされる。

紫式部がこの地に住んだ500年ほどあと、船岡山のあたりにあった盧山寺が現在の地に移され今に至っている。

以前、この寺を訪れたときは源氏物語にはさほど興味がなかったし、源氏の庭と呼ばれる庭はなんだか間が抜けている感じがして、あまりいいとは思わなかった。
今回は少し源氏物語を読んでいることもあって、源氏物語関連の展示は面白く見ることができた。
展示のひとつに室町時代に書かれた源氏物語の系図があったが、この時代の人も、物語に出てくる登場人物の関係を読み解くのに苦労して、こんな系図を書いたのだろうと思うとなんだかおかしかった。

その展示を見ているときに、隣の部屋から声が聞こえてきた。
「この阿弥陀さんを見ることはできないの?」
拝観に訪れた人の声のようである。
寺の人はちょっとできないんです、というようなことを言っている。

何のことかと思い、隣の部屋の前に行くと、そこに仏像の写真が置かれている。
実物も部屋の正面に置かれているのだが、部屋の中には入れないようになっていて、しかも、奥のかもいからは幕が下ろされ、ちょうど顔の部分が見えないようになっている。遠くにその胴体だけが見える。

なるほど、このことだったのか。

しかし、写真で見る限りでは、なかなかいいではないか。
阿弥陀如来、観音・勢至菩薩の阿弥陀三尊像で、平安時代末期から鎌倉時代のごく初期のものとされる。
平安時代に流行った定朝様の特徴が出ていて、丸顔で優美なまるまるとした体型をし、穏やかな表情で静かに座っている。
観音・勢至菩薩は阿弥陀如来の両脇に置かれ、三千院のそれと同じようにひざを折って座る。
勢至菩薩は横から写した写真があり、それを見ると衣が体の後に向かってなびいている。
ちょうど雲に乗ってお迎えに来る最中の様子を表したようだ。
できれば実物を見たいものだ。

さきほど、阿弥陀を見ることができないのか聞いていた人はもう帰っていて、残っているのは我々だけとなっていた。前回に懲りず、再び源氏の庭を眺めてみる。
白砂に丸くかたどった苔を植え、その中に桔梗がぼそぼそと植えてある。夏にはこの桔梗は青紫の花を咲かせる。
この庭はどうも上品過ぎる。

外に出たら、寺の人はすぐに戸締りを始めた。
地面に映る影もだいぶ長くなってきた。

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葵の葉:京都取材旅行第三回(1)

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新緑がトンネルを作る糺の森を抜けると、鳥居の向こうに朱の鮮やかな楼門が見えてくる。葵祭を2日後に控えた下鴨神社の境内は多くの人が祭の舞台の設営のためにあわただしく働いていた。
以前、ここを訪れたのはまさしく葵祭その日であった。京都御所で行列を見送ったあと、盧山寺に立ち寄り、そして下鴨神社まで歩いた。まだ行列は下鴨神社に到着していなかったが、既に大勢の人でごった返していた。

今日は準備をする人たちでにぎわっているものの前回よりも人の数も少なくずっと静かだ。
加茂川と高野川は合流し、名を鴨川と改めて京都市街を流れる。そのY字型に合流する位置に下鴨神社はある。加茂川を上流へ少したどっていくと上賀茂神社がある。

どちらも古代豪族である賀茂氏の神社だ。
いまはこの両者は別々の神社とされているが、かつてはこの両方をあわせて加茂社と呼び、区別はしなかった。
賀茂氏は神武天皇の東征のとき、熊野から上陸した神武天皇一行を三本足のカラスであるヤタガラスの姿となって道案内をし、大和朝廷の成立に貢献したと、古事記や日本書紀に書かれる。
その賀茂氏は京都に都が遷るはるか以前からこの地に勢力を持っていた。

社伝によると崇神天皇の二年に神社の瑞垣の修造がおこなわれたという記録が残っている。崇神天皇は第10代の天皇で大和の三輪山のふもとを本拠地として大和を治めたとされる。天皇の実在性については、この第10代の崇神天皇が実際の初代天皇ではないかという説を唱える学者が多く、それ以前の天皇は実在しなかったのではないかとされている。

いずれにしても、とてつもなく古い時代からこの加茂社が存在したらしいということなのである。

下鴨神社の正式名称は賀茂御祖(かもみおや)神社といい、上賀茂神社は賀茂別雷(かもわけいかずち)神社という。つまり、下鴨が親であり、上賀茂が子供という関係になっている。

山城国風土記逸文によると、神武天皇一行の道案内をしたのは、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)という。賀茂建角身命には一男一女がいた。娘の名を玉依日売(たまよりひめ)という。玉依日売がある日、瀬見の小川(加茂川)で川遊びをしているときに上流から丹塗りの矢が流れてきた。玉依日売はその矢を拾い上げ、床に立てかけておいたところ、玉依日売は身ごもった。生まれた子供が賀茂別雷大神である。

下鴨神社に祀られる神は賀茂建角身命と玉依媛命(玉依日売)であり、上賀茂神社にはその子、賀茂別雷大神が祀られる。

山城国風土記には、さらに話の続きが書かれている。
賀茂別雷大神が成人したとき、賀茂建角身命は群神を集めて7日7夜の盛大な祝宴を開いた。そのとき、賀茂建角身命は酒盃を渡し、「父と思う人にこの酒を飲ましめよ」と告げる。すると、賀茂別雷大神は「吾は天神(あまつかみ)の御子なり」と言って屋根を突き破って天に駆け上がっていった。

朱塗りの矢となって玉依日売を身ごもらせた父親は果たして誰だったのか。
山城国風土記には、「乙訓の郡の社に坐せる火雷神」と書かれている。松尾大社の大山咋神であるという説もある。

この朱塗りの矢とか加茂社の神事とか興味は尽きないのだが、あまりこの話を書いていると、旅行記が先に進まないのでこのくらいにしておく。

前回は葵祭の日で入れなかったのか、それとも人が多かったせいか、楼門の中には入らなかった。
さらに中門があって、その門をくぐると干支の守り神である言社の社(やしろ)が置かれている。
その奥にこの神社の二柱の祭神が祀られる。

ここで拝観料を払うと横にある三井神社とさらにその奥にある葵の庭にある大炊殿(おおいどの)に入れる。
葵の庭にはこの神社のシンボルである葵が自生している。今回、ここに来た目的のひとつにこの葵の葉の写真を撮ることがあった。

大炊殿は神への供え物を調理する社殿で、かまどなどがあり、そして実際にどのような供え物が作るのかなどを展示している。
この大炊殿のある場所はかつての賀茂斎院御所があったところだった。
斎院とは斎王ともいい、いま葵祭では斎王代が毎年京都市民の中から選ばれているが、かつては未婚の皇女が奉仕することになっていた。

受付で貰ったパンフレットに都名所図会という江戸時代後期に出された京都のガイドブックに描かれている下鴨神社の境内が載っているが、いまとほとんど変わっていないのに驚かされる。

源氏物語には光源氏の正妻の葵上と源氏を慕う六条御息所が、葵祭で行われる斎王の御禊を見ようと牛車を出して場所取りをする話が出てくる。両者の車は鉢合わせし、六条御息所の車は警護の者から辱めを受け、壊されてしまう。このときの屈辱が六条御息所を生霊として葵上を呪い殺す話につながっていく。

また、光源氏が須磨へ赴く前に、糺の森の神々を前に「憂き世をば 今ぞ別るるとどまらむ 名をば糺すの神にまかせて」と詠む話も出てくる。

紫式部のいた平安時代の下鴨神社の姿はさすがにいまとは違うだろうけれども、古くから京都の人々にとって大きな存在感を持っていたことを彷彿とさせる。いまも雅な雰囲気を残す神社である。

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