京都取材旅行記第一回

船岡山から京都を一望する:京都取材旅行第一回(18)

IMG_1723大徳寺を出たとき、時刻は既に3時半になっていた。
予定ではこのあと金閣寺、竜安寺に行くつもりだった。
タクシーを拾えば金閣寺には行けるだろう。
しかし、寒さに弱いツレがギブアップを宣言したため、門を出たところにあった喫茶店に入り、一休みすることにした。
寒い中を吹きさらしの寺の建物を回り1日中、庭を見まくったのだから無理もない。

喫茶店の窓からは船岡山がすぐ目の前に見える。
船岡山は平安京造営の基点となった場所で、山というよりは小高い丘と言ったほうがふさわしい。
この山のすぐ南に大極殿が作られ、その先から朱雀通りが南へ向かって作られた。
この山の頂上には磐座があり、平安京遷都以前から古代人はこの山で神下ろしをし、神聖な場所としていた。

その船岡山に一度登ってみたいと思っていた。
疲れているツレには悪いと思ったが、登ることにした。

登っていくと公園になっている広場があり、そこからは比叡山がよく見える。
眼下には大徳寺の伽藍も見える。

さらに登ると三角点のある頂上に出た。
大きな岩がある。これが磐座だろうか。
遠くに京都タワーも見える。

ここには、建勲神社が建てられている。
織田信長が祀られる神社だ。

この神社は次のようないきさつで作られている。
明治2年に、信長の子孫で天童藩知事の織田信敏という人が、信長の神号の宣下を明治天皇に願い、建織田神の神号を賜るが、翌年、建勳社(たけいさおのやしろ)と改称され、東京の織田信敏邸と天童舞鶴山に祀った。
京都の建勲神社はその後で遷座したものだ。

建勲神社は、明治天皇が織田信長を祀って作ったと書いてあることがあって、どうして明治天皇が信長を?と思っていたのだが、調べてみると上のように信長の子孫が明治天皇に願ってできたものであるようだ。

神社の本殿に着いた頃には雨が降ってきた。
その雨も拝殿でほんの数分待ったらやんだ。
船岡山を下りる頃には日も出てきた。
降りる途中、比叡山を夕日が赤く染めているのが見えた。赤く染まった比叡山は神々しかった。京都の人が比叡山に特別な思いを持っていたのがわかったような気がした。

(京都取材第一回目の旅行記おしまい)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

大徳寺・高桐院の美意識:京都取材旅行第一回(17)

IMG_1708最後に行った大徳寺の塔頭が高桐院。

入り口を入り、直角に曲がって門をくぐり、さらに直角に曲がる。
そこには両側を生垣で仕切られた通路があり、地面には苔が植えられ、その中央を白い敷石がまっすぐにはるか前方の唐門に向かって続いている。

大徳寺はどこをとっても絵になる。
その美意識には少しの隙もない。

JRのポスターが貼られていたがこの道は秋になると、苔の緑が落ち葉で赤く染まる。
これもまた美しい。見事しか言いようがない。

客殿前の庭は苔が敷き詰められ、中央に一本の灯篭があり、ところどころに木が植えられる。奥は竹林となっている。その灯篭は墓石のようでもあり、少し陰気な感じのする庭だ。

客殿西の庭には降りることができる。
そこにも、ひとつの灯篭が立っている。
この灯篭はもと千利休が秘蔵していたもので、天下一とされていた。
これを豊臣秀吉と細川三斎の2人に請われるが、このとき、利休はわざと裏面三分の一を欠き、疵物と称してこれを退けた。その後、利休切腹のときに三斎に遺品として贈られたものだ。
欠けている事から欠灯篭と呼ばれる。
実は、この灯篭、いまは墓として置かれている。
この寺を創始した細川三斎とその妻、ガラシャがここに祀られる。
この下には遺歯が埋められているのだ。

無念のうちに自害した利休、明智光秀の娘として本能寺の変後、幽閉され、のちにクリスチャンとなり関が原の合戦のときに屋敷に火を放ち、家臣に胸を突かせて死ぬガラシャ夫人、このようにして妻を失った細川三斎の念がこの寺には篭っているようだ。
高桐院の美の裏には死のにおいがする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

大徳寺・住職のコメント:京都取材旅行第一回(16)

IMG_1679庭園を紹介する本には必ずといっていいほど載っているのが、大仙院の庭だ。
受付を済ませると方丈前に2つの盛砂のある庭が目に入った。
そこを見ていると、お寺の人から、よろしかったらこれから説明しますので、と言われ、10人ほどの人たちと一緒に説明を受けることになった。

不思議なめがねをかけ、作務衣を着た有髪の若い男性が案内してくれる。
この人は僧侶なんだろうか、アルバイトなのだろうか、それとも寺の身内の人なんだろうかと思いながら、こちらへと言われるままにあとを付いていく。

始めに見せられたのは方丈前の庭ではなく東側の庭。
この寺では方丈の周りを左回りに見るように順路が設定されていて、こちらから見るべきものだったらしい。

そこには白砂の上に首を持ち上げて浮かぶ宝船を模した石。かたわらには小さな石が砂に埋め込まれ、これが亀なのだという。奥の石は比叡山を模していると、その案内の男性は言った。

庭は透渡殿(すいわたどの)と呼ばれる花頭窓の開けられた壁でしきられ、向こう側には、方丈の建物の角に沿って鉤型に広がる庭がある。
あわせて20坪程度の庭の角には背の高い石が屹立し、その奥に植えられた木々で深山幽谷の雰囲気を出している。滝を表す石があり、ここから流れる水は、花頭窓のあるしきいの下を通ってはじめに見た宝船のある庭へと流れているという。
水、といっても本当に流れているわけではなく、白砂でそれを表現している。

方丈裏手に回ると中海と呼ばれる庭。
白砂に点々と岩が置かれている。

そして、方丈表にははじめに見た2つの盛砂のある庭。庭の端には沙羅双樹の木が植えられる。
この庭には岩はない。

始めは岩が多く、だんだんと少なくなること様子は、余分なものをそぎ落とし、最後に悟りの心境を表しているのです、
とその謎のめがねの男性は言った。

説明が終わり、受付のところに戻ると、ちょうど住職がいらっしゃるので、皆さんお持ちのパンフレットに住職が名前を書いてくださいますよ、と受付のおばちゃんが言う。
こんなことはあまりないんですけどね、と付け足した。

パンフレットを出し、今一緒に説明を受けた人たちの列に並ぶ。
待っていると、受付のおばちゃんが、寺で売っている本や住職が揮毫した色紙を持って、どうぞ手にとってごらんください
などといい始めた。例のめがねの男性にも、小声で何か言うと、その男性も色紙を手に取り、我々の方に見せ始めた。
突如、その場は展示即売会のようになった。その様子がなんだか可笑しい。

偶然を装って住職が出てきたように見せているが、全部仕組んでいるのではないかという気もしてくる。
胡散臭さを感じたのか誰一人として買う人も、手に取る人もいなかった。

列の前の人の様子を見ていると、下の名前を告げるとそれを書き、住職の花押のようなサインをマジックペンで書いてくれている。そのとき、ひとりひとりコメントを言っている。
順番が回ってきた。
「私が今日あるのは秀樹様のおかげです」
と言われた。一瞬意味がわからなかった。誰のことを言っているのか。
あ、自分のことなのか。

相手に何も感じることがない場合は、こう言っているのかもしれない。
なぜなら、ツレは「生命力抜群でフレキシブル」と、実に的確なことを言われていたからだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

大徳寺・庭に隠された十字架:京都取材旅行第一回(15)

IMG_1661瑞峯院は、のちにキリシタン大名として知られることになる、大友宗麟による創建になる寺だ。
寺のパンフレットによると天文四年(1535)に方丈が建造されていることになるが、このとき1530年生まれの大友宗麟は数えで6歳ということになる。
となると本人の意思でこの寺が創建された訳ではなく、大友家の意思で作られたものだろう。
宗麟の名は22歳のときに、ここで得度を受けたときに改めた名前なのだそうだ。

独坐庭と名づけられた方丈前庭と、閑眠庭と名づけられた方丈裏の庭がある。
独坐庭には、蓬莱山を表す石が立てられ、波模様のつけられた白砂で覆われる。
波模様の起伏が普通の枯山水よりも大きく、荒々しい。
奥には茶室があり、そのあたりは入り江が白砂で作られ、静かに波が打ち寄せるさまを表している。


裏手の閑眠庭は、七個の石が置かれ、縦に四個、横に三個の石によって、十字架を表すという。
斜めに庭を横切る2本の直線ははっきりと交差はしていないが、十字架といわれれば十字架かもしれないと思わせる。

この庭はどちらも古いものではなく昭和の庭師・重森三玲氏が作ったものだ。
少ない予算とわずか一ヶ月の工期でこの庭を作り上げた。
のちに洗礼を受けてキリシタン大名となる大友宗麟との関係を考え、重森氏はこの庭に十字架を隠したのだ。
はっきりと十字架の形が見えてはこの庭は面白みがないものになってしまう。だから、すぐにはわからないような形で石を置いていったのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

大徳寺・お寺の中の食事処:京都取材旅行第一回(14)

P1020295興臨院を出たところで既に2時を回っていた。
大徳寺の境内にある泉仙で昼食をとることにした。
興臨院、瑞峰院のあるとおりを置くに向かっていくと「清饗(食事)の方入口 泉仙」と書かれた看板が門に掲げられているところに出る。狭い通路を2度直角に曲がると、二階建ての日本家屋が現れた。
ここが泉仙だった。
1階の畳敷きで並べられた部屋に通された。

ここでは精進料理が食べられる。頼むと始めに抹茶とお菓子が出てきた。
さすが茶道と繋がりの深い大徳寺である。

後ろでは外国人の連れを案内する日本人が、これは肉を使わないすべて野菜や豆腐で作られたものだ、という説明を必死に英語でしているのが聞こえるが、聞いている外国人はそのあたりは既に知っている様子。
禅は鈴木大拙氏が欧米で広めて以来、人気を保っているようで、臨済禅の一大拠点のひとつであったこの寺でも外国人の姿をよく見る。

外はさきほど通ってきた通路が見える。木々が植えられ、しっとりとした情緒を感じさせる。

お腹も満たされた我々は次の瑞峯院を目指した。
この時点で、いくつもの庭を見たために、もはやどれがどれだかわからなくなりつつなっていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

大徳寺・興臨院の懐かしい露地:京都取材旅行第一回(13)

IMG_1654常時公開の瑞峰院へ向かう途中、冬の特別公開で興臨院が開いていたので、入ることにした。

受付を済ませると説明をするからと言われ、続いて入ってきた2人と一緒に説明をしてもらった。

始めに方丈に案内される。
この塔頭は1520年代に能登の守護職だった畠山左衛門佐義総という人によって建立されるが、創建直後に焼失し、今の本堂は天文2年(1533年)に再建された。
畠山家没落後は、前田利家によって本堂屋根の修理が行われ、以後、前田家の菩提寺となる。

方丈の天井は響き天井となっていて、手を叩くとわずかに残響音が聞こえる。
かつて、狩野元信の屏風絵があったようだが、幕末から明治維新の混乱期に失われている。

方丈前の庭は手前に白砂が敷かれ、奥に苔が敷かれ、松が植えられ、岩が配置される。
この庭は寒山・拾得が生活していたという天台山の国清寺の石橋を模し、理想的な蓬莱世界を表現している。

寒山・拾得は禅宗の説話に必ず出てくる人物で、禅画にもよく描かれたりする。
禅画では寒山は経巻、拾得は箒を持ち、どちらもぼさぼさの髪に敗れた衣を着ている姿でよく描かれる。
箸にも棒にもかからないどうにもならない者だと思われていた2人だったが、実は普賢菩薩・文殊菩薩の化身であったとされる話である。
何ものにもとらわれることのなく自由に生きた2人の姿は禅の精神と一致することから、よく禅宗で取り上げられるのだ。

方丈の裏に回ると、貝多羅樹が植えられている。この木の葉をとがったもので引っかくとそのあとがはっきりと残るため、古代インドでは、この葉に経文を書くのに用いられたというものだ。

最後に茶室。
古田織部好みの作りだという。
にじり口の横には貴人口があり、にじり口のようにかがまずに入れるようになっている。
本堂へ向かう廊下と茶室の間には小さな露地が作られ、廊下に接してところには、腰掛だけの待合があり、本堂と茶室の間には飛び石が点々と置かれる。つくばいには椿の花と葉が置かれ、細かい配慮が行き届いている。

枯山水のような緊張を強いるような庭ではなく、ひと昔前の日本家屋には普通にあったような懐かしさを覚えさせる庭だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

大徳寺・龍源院の庭づくし:京都取材旅行第一回(12)

IMG_1633翌朝、ホテルを出てバスで大徳寺に向かった。
泊まっていたホテルは、三井ガーデンホテル京都四条。何度目かの宿泊になるが、大浴場があって値段もリーズナブルなのがいい。

東側の門から入ってすぐのところに金毛閣朱に塗られた巨大な三門があった。

千利休は秀吉の命で切腹させられているが、その理由としてここの三門の楼上に利休の像を置いたからだと言われている。その門を秀吉がくぐることになるので不遜だ、というわけである。

通常はここは公開されていず、下をくぐることもできない。

三門の先には仏殿、その先には法堂がある。
仏殿には丈六の釈迦如来像が安置される。天井にはかつては龍図が描かれていたのかもしれない。
大きな墨の円だけが描かれている。

大徳寺には全部で23の塔頭があり、常時4つの塔頭が一般公開されている。
大徳寺を巡るということは、これらの塔頭を巡ることになる。

まず、龍源院に向かう。
建物の中に入ると、書院の庭が目に入る。阿の石、吽の石が左右に置かれ、白砂で波模様が描かれる枯山水。すぐ前が塀の小さな庭だ。

奥へ向かうとそこが方丈で、表側に面して枯山水の庭、裏に廻ると苔の敷き詰められた庭がある。
東側の庫裏との間のわずかな空間にも坪庭が作られている。

まず、表の枯山水の庭には、蓬莱山を現す大きな岩が屹立し、左右に亀島、鶴島が配される。
蓬莱山とは、中国の神仙思想からくるもので、中国東方海上にあり、不老長寿の霊薬があって仙人が住むとされる山だ。そして、鶴は千年、亀は万年のおめでたい動物を模した石を左右に置くのがこの手の庭の定番となっている。

方丈の裏手に回ると竜吟庭と名づけられた杉苔の敷き詰められた庭がある。
この苔が大海原を表すのだという。
庭中央には、須弥山を表す岩が建てられる。
須弥山は仏教世界の中心であり、そこには九重の山があり、八つの海に囲まれているとされるため、九山八海とも呼ばれる。
相阿弥の作と伝えられる。相阿弥という人物について簡単に調べてみると、室町後期の画家で、牧谿の山水画を基礎に独自の画風を作り、狩野派への橋渡しの役割も果たしたと書かれているが、その実際のところはまだよくわからない。相阿弥のおじいさんは能阿弥で、その子・芸阿弥、孫・相阿弥の三人を三阿弥と呼ぶ。
竜安寺の庭の作者も相阿弥説があり、作庭にも深く関わっていた形跡がある。

方丈を一回りして戻ってくると最後に東滴壺と名づけられた坪庭がある。
この庭は小さいけれども、立っている石が必死にその存在を主張しているような、力強さがある。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

野宮神社のミニ庭:京都取材旅行第一回(11)

IMG_1618天龍寺北門からはすぐ近くにある野宮(ののみや)神社へ。
ここはいつ行っても人でにぎわっている。
特に女性比率が高い。
縁結びの神として慕われているせいだろうし、源氏物語「賢木の巻」にも登場することもあるからだろう。

祭神は野宮大神とされるが、この神は天照大神のことだという。

ここには、かつて斎王が伊勢神宮へ行く前に身を清めるための仮の宮があった。
その宮を野宮という。
野宮は、天皇の即位毎に定められ、この場所が使用されたのは平安時代のはじめからとされる。

斎王は、天皇が新たに即位 するごとに天照大神の御杖代(みつえしろ)と して伊勢神宮に遣わされた。
斎王には、未婚の内親王もしくは女王が選ばれた。

入り口には黒木の鳥居、さして広くはない境内の左手には白峰弁財天など別の神々が祀られる。
苔の庭の中央には小さな橋がかかり、ミニチュアの庭のようだ。

ここから、再び自転車を駆り、嵐山のメインストリートを抜け、渡月橋まで出た。
この橋のたもとに琴きき橋がある。
橋といっても形だけの橋である。
この旅の始めに行った清閑寺に祀られる小督局にちなんだ橋である。
小督局は嵯峨野に身を隠すが、高倉天皇の命を受けて探しに来た源仲国は小督のつま弾く琴の音を聞いて、見つけ出す。それがこのあたりだと、平家物語に書かれる。
琴きき橋は車折神社嵐山頓宮のところにある。

そのすぐ近くに小督塚もある。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

夢窓疎石の夢・後醍醐天皇の夢:京都取材旅行第一回(10)

IMG_1595再び、自転車を駆って嵯峨野を走る。

嵯峨野名物の竹林の小道を抜け、天龍寺の北門に到着する。

ここには曹源池を中心とする夢窓疎石作庭の庭がある。
夢窓疎石は苔寺として知られる西芳寺や、鎌倉・瑞泉寺、山梨・恵林寺の庭園を造った人物としても知られる。

そもそもここ天龍寺は夢窓疎石が後醍醐天皇の菩提を弔うため、足利尊氏に建立させた寺だ。

尊氏は当初、後醍醐天皇の側となって鎌倉幕府滅亡の立役者となり、尊氏の名も当初は高氏といったが、後醍醐天皇の諱の「尊治」から一字を賜り、尊氏と改名したほどに2人の中は良かった。

しかし、その蜜月も長くは続かず、尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻す。
そして、光明天皇を擁立して、後醍醐天皇に退位を迫るが、後醍醐天皇は吉野に逃れる。
これが北朝と南朝の始まりで、以後60年間にわたり、天皇家は2つに分断した。
後醍醐天皇はやがて吉野で失意の内に亡くなる。

そんな因縁関係にある尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために天皇が幼年期を過ごしたとされるこの地に建立したのが天龍寺なのだ。
後醍醐天皇は境内奥の霊廟多宝殿にその像が祀られる。

多宝殿では、かつて天皇に謁見するときには、このくらい距離が離れていただろうと思わせるくらいに遠くにその像は置かれていた。しかも、薄暗い建物の中、後醍醐天皇の像のところだけにほの明るい明かりがつけられ、その姿には神々しささえ感じさせる。

さて、夢窓疎石の庭だが、以前来た時にはあまり何も感じなかった。
けれども、今回来て見てみると、どういうわけかなかなかいいと思った。
特にこの庭は大方丈の縁側から見るのが一番良く見えるように作られている。
池の正面にはかつて滝が流れていたという石組みがあり、背後には亀山が立ち上がっている。
山の雄大さと石組みのリズム感、そして池の繊細さが見事に融和している。

背後の望郷の丘と呼ばれる丘に登ると眼下に池を望める。
ここからの景色もよく、天龍寺の伽藍ごしに双ヶ岡も見渡せる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ふたつの恋物語:京都取材旅行第一回(9)

IMG_1581祗王寺の門を出てすぐのところに、滝口寺がある。
こちらも同じく平家物語に登場する滝口入道と横笛にゆかりの寺。
祗王寺には人が大勢入っていくのだが、どういうわけかこちらにはほとんど人が来ない。

寺のパンフレットでは『平家物語』維盛高野の巻に出てくると書かれているが、手元にある岩波文庫では巻第十の「横笛」に出てくる。
平家物語全体ではかなり後ろの方だ。

平重盛に仕える侍に斉藤滝口時頼という人がいた。
この時頼が建礼門院の雑仕女であった横笛に恋をする。

これを知った時頼の父は、
「名門の家の婿にして楽に宮仕えをさせてやろう思っていたのに、身分の低い女に心を奪われるとは」
と激怒する。
時頼は、古代中国の仙女である西王母や不老長生の神仙とされる東方朔を引き合いに出し、そんな長寿の仙人でさえ、今では聞くことがなく、短い人生を気に染まない醜い女を片時でも妻として何の甲斐があるだろうか、それなら気にいった女性と一緒になりたい、
と言って、髪を切り出家してしまった。
そして嵯峨の往生院で修行の日々を送るようになった。

それを伝え聞いた横笛は、私を捨てるのはともかくとして、どうしてひそかに出家してしまったのかと、時頼を探そうとする。
往生院のある坊まで訪ねてみると、聞こえてくる読経の声が時頼だと気づく。そこで供のものに、会いたいと伝えさせるが、時頼は、人を出してこの寺にそのような人はいないと追い返してしまう。

時頼は再び彼女が訪ねてきたら心が動揺してしまうと、高野山に入る。
そして横笛は奈良の法華寺で尼になるが、ほどなくして亡くなってしまう。
それを聞いた時頼はますます修行に励み、いつしか「高野の聖」と呼ばれるまでになった。

往生院にはたくさんの坊があったが、数々の戦乱によって破壊され、祗王寺と三宝寺だけが残った。
その2つの寺も明治の廃仏毀釈で廃寺になるが、その後、再建され、佐々木信綱が、小説「滝口入道」にちなんで滝口寺と名づけたのがこの寺だ。

寺の入り口のところには、新田義貞の首塚がある。
新田義貞が三条河原でさらし首になっていたのをその妻勾当内侍が奪い、このあたりに祀い、髪を下ろして尼となった。

この寺は滝口入道と横笛、新田義貞と勾当内侍のふたつの悲恋を伝えているのだ。

そこから細い道を登っていくと本堂がある。
本堂には滝口入道と横笛の像が置かれている。

広く開け放たれた室内から広々とした庭の木々がよく見える。
夏なら、風が通って気持ちがいいだろう。

一緒になることができなかった滝口入道と横笛だが、ここでは並んで座り、庭の季節の移り変わりを静かに見守っている。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

祗王寺の猫:京都取材旅行第一回(8)

IMG_1560翌朝、地下鉄とJRを乗り継いで嵯峨嵐山駅へ。

ツレの提案で急遽レンタサイクルを借りることに。

自転車で嵯峨野を走る。むき出しの手や顔にあたる冬の京都の風は結構冷たいが、気持ちがいい。

最初の目的地、祗王寺へは10分ほどで到着。

祗王は平家物語で、平清盛の寵愛を受けた白拍子だ。
白拍子とは烏帽子・直垂姿の男装で謡い踊った女性のこと。

あるとき、清盛のもとに仏御前という同じく白拍子が自分の芸を売り込みに来る。
始め清盛はこれを断るが、祗王のとりなしで仏御前は舞を舞う。
すると、清盛はすっかり仏御前を気に入ってしまい、祗王を追い出してしまった。

失意の祗王は出家し、嵯峨野の往生院に母親の刀自、妹の祗女とともにひっそりと暮らすようになる。

そんなある日、祗王らを訪ねてきたものがあった。
それは、仏御前であった。

清盛の祗王に対する仕打ちを見た仏御前は明日はわが身と思い、清盛のもとを去ったのだ。

その後、祗王らは仏御前と四人で念仏三昧の日々を送ったという。

この祗王寺は、かつての往生院の境内に建つ。

祗王寺と緑色の文字で書かれた小さく鄙びた門をくぐり、受付を過ぎると、祗王寺の小さな本堂と苔の敷き詰められた庭が視界に入る。
苔の庭には、桜の木が植えられ、周囲を巡ることができる。

本堂に上がる。
座布団が10枚ほど敷かれたうちの1枚に白い猫が座っていた。
すぐそばに座ってもその猫はまったく動じない。
そっとあごの下をなでてやると、もっとやってくれと言わんばかりに黙ってあごを伸ばした。

よしよし、ういやつと夢中で猫をなでていると、ふいにツレの「ほら、まず仏様に挨拶しないと」という声がした。
その言葉でふっとわれに返り、猫とのスキンシップの時間は終了となった。

正面中央には本尊の大日如来が祀られる。
その両側にここで暮らした祗王ら4人の像が置かれていた。
本尊と祗王ら4人のそれぞれの像の前は窓がくり貫かれている。

いずれも尼僧姿で、時代を経て黒ずんでしまった像だが、玉眼の入った目が光っている。
祗王は片手で合掌し、もう片方の手で鐘を叩き念仏を唱える姿だ。

良く見ると、大日如来と祗王の間の窓のあいていないところにもう1体の像が置いてある。
平清盛だった。
窓の隙間から覗いてみないとその顔は見えないようになっている。
祗王をかつて寵愛したが、追い出した張本人でもあるという微妙な立場を、その置かれた場所が表している。

「あっ、猫がいる」
部屋に入ってきた女の子の声に、危険を感じたのか、静かに座っていたその猫は座布団を明け渡し、部屋の奥へと去っていった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

関西おばちゃん文化:京都取材旅行第一回(7)

P1020182石畳の八坂道を歩く。
振り返ると八坂の塔が八坂道の行き止まりにあるのが見える光景が楽しくて、時々振り返りながら歩く。

今日の予定はこれで終了。
今日の宿のホテルフジタ京都まで歩くことにする。

東大路通を渡り、建仁寺の北門の前を通り、祇園の小道を抜ける。

家の表札の他に「小とみ」「霞奈」などの表札の掛かっている家があった。
お茶屋と書いてある。
あるいは、お茶屋兼置屋かもしれない。

お茶屋であれば、その日お座敷に上がる芸妓さんの、置屋であれば、そこが抱えている芸妓さんの表札が掲げられる。
お茶屋は、芸妓、舞妓を呼んで遊ぶ場所で、お茶屋は場所と酒を用意し、料理は仕出屋に、芸妓、舞妓は置屋に頼む。そして、置屋は芸妓、舞妓を抱えて、お茶屋からのお呼びを待つというシステムだ。

基本的には一見さんお断りの世界であり、中で遊べたとしても一人10万円程度は覚悟しなければならないという。

外からはそんな華やかな世界が広がっていることを微塵も感じさせない奥ゆかしさが日本の美のひとつだと思う。

四条通を渡り、鴨川の東側の縄手通を歩く。鴨川沿いに沿って走る川端通を一本東に通る道だ。

歩いていると、途中の店から着物を着た女性が大勢出てきた。
始めに出てきた年配の女性が女将で、次に芸妓、最後に出てきた若い女性達が舞妓という関係かもしれない。
さすが祇園。

この通りは骨董品屋などがあって面白い。
掛け軸や壺などが置いてある。

三条通のひとつ北側に掛かる御池大橋を通って、鴨川を渡る。
鴨川の橋の上から北山が夕日に照らされ、光っている。

ホテルフジタ京都に到着。

通された部屋は和室だった。自分で予約したのに、和室だったということをすっかり忘れていたので、通されたときに驚いた。
室内には千鳥模様でくり貫かれた袖壁があり、机の上には俳句の書かれた短冊が置かれ、かたわらにはひとつの千羽鶴が折られてある。障子を開くと鴨川が見える。

日本の繊細でしっとりとしたもてなしの文化は、やはりいいものだと、しみじみしながら和室でくつろいでいた夕方5時半ごろ、突然、部屋のチャイムを鳴らす音が。
続いて手でドアをたたき、さらにしつこくチャイムを鳴らしている。
他の部屋の人が間違えて鳴らしているのかと思って、出てみるとおばさんが2人。
「布団を敷きにきました」

なんだホテルの人だったのか。
なんというか、関西のおばちゃんである。
このせわしなさも関西のひとつの文化。

ホテルフジタ京都はここから予約できます。

ホテルフジタ京都

| | コメント (0) | トラックバック (0)

京都ミステリー:京都取材旅行第一回(6)

IMG_1555正法寺の石段を下り、再びもとの急坂の道へ戻る。

あった。

道が直角に曲がる角の家の表札に「西村京太郎」とある。
とすると、その隣が山村美沙か、と行ってみるとはたしてそうだった。
2つの家は隣り合っている。

実はこの2人のミステリー作家の家がここにあるというのは、正法寺で教えてもらったのだ。
それでわざわざ道を戻って、その場所を確認した。

特にファンというわけではない。いや、むしろ、ほとんどこの2人のことは知らない。
ミステリーは読まないので、さっぱりわからないと言ったほうがいい。

調べてみると山村さんは既に故人のようで、その娘の山村紅葉という人が女優として活躍しているらしい。
山村邸の玄関は芝居のポスターや花飾りなんかが置いてあったのは、そういうことだったのか、ということをこれを書いている今思った。

再び人の大勢行きかう三年坂に戻る。
そのまま真っ直ぐに行くとやがて八坂の塔のところに出る。

ついさっき、正法寺で見おろしていた塔だ。

正式名称を霊応山法観寺という。

ここに、木曽義仲の首塚がある。平家物語つながりで、この写真を撮りにきたのだ。
源義経らのとの戦いに敗れた義仲は近江の粟津まで逃げ延びるが、最期を覚悟し、自害しようと馬で駆ける途中、深田にはまり、そこで討たれてしまう。
その首は六条河原にさらされたあと、法観寺の境内に祀られたとされる。

敷地の端に、小さな小さな石塔が立っていた。歴史に名を刻んだ人がこんなにも小さいのかと思うくらい小さかった。
敗軍の将ゆえか、京都人から嫌われたためか。

八坂の塔は登ることができる。
以前来た時も登ったが、せっかくなのでまた登ってみた。
ここは塔の礎石も見えるようになっているし、登ると上からの京都の街の景色も見える。

表の通りはひっきりなしに人が通るのに拝観料を取るからか、中に入る人は少ない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

京都幻想:京都取材旅行第一回(5)

IMG_1540京都霊山護国神社の竜馬らの祀られる墓地の敷地を左に見ながら、長く急な石段を一歩一歩登って行く。

小さな門のところで息を整える。

さらに石段を登る。
登りきったところに古びた本堂が左手に建っていた。
振り向くと今登ってきた石段とともに京都の街が眼下に広がっているのが目に入った。

ここが正法寺か、ときょろきょろしていると右側の建物から女性が手招きしている。
「こちらへどうぞ」と招かれるままにいくと縁側でお茶を淹れてくださった。
その縁側からの京都の街もまた見事なものだった。

すぐ下に八坂の塔が見え、中央には京都タワーも京都駅も見える。
おもちゃのように新幹線が走っているのも見えた。
左端には清水寺の修理の完了したばかりの朱の鮮やかな仁王門。
向こう側には西山の山並みが見える。右側の高い山が愛宕山。左側の山の途切れたところの遠くに見える巨大なビル群が大阪だそうだ。

雲の切れ目からいく筋もの光が京都を照らしている。

「夕日が西山に沈む頃が一番きれいですよ。」
と、いつごろが一番いい景色なのかというツレの質問に、お茶を淹れてくれた女性は答えた。
その時間になると、夕日が室内の奥まで入ってきて、部屋中が真っ赤に染まるのだという。
「秋はこの建物の前にある万葉紅葉が色づき、夕日を額縁のように囲んでものすごくきれいなんですよ」
とアマチュアカメラマンが撮って置いていってくれたという写真を見せながら楽しげに話してくれた。

「結構、京都は高いビルが多いでしょう。この間、霧がかかって京都の街が隠れて見えなくなったときがあったんですが、そのときも幻想的できれいでしたよ。」
その人はここから見える景色やこの寺の静かなことなど、とにかくうれしそうに語り続けた。

東京の出身なのだそうだ。どうりで言葉に京都なまりがないはずだ。
この寺にお嫁さんとしてきたのかと思ったがそういうわけではなく、三十弦の琴を演奏する音楽家の方らしい。
ここを借りてもう何年も生活しているのだそうだ。

名前を聞くのを忘れていたが、有名な人なのかもしれない。
ここでの生活を楽しそうに語っているのを聞いただけで、こちらもおなかいっぱいという感じになった。

2杯目のお茶を飲み終わった頃、だいぶ体も冷えてきたので、おいとますることにした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

PDAに引かれて清水寺参り:京都取材旅行第一回(4)

P1020141清閑寺から来ると清水寺の人の多さにはめまいがするほどだ。

清水寺は境内に入るところではなく、清水の舞台に入るところで拝観料を徴収する。
何度も来ている清水寺なので、今回はその舞台には上がらず、舞台の下を通って清水寺の参道へ向かった。

門前まで来て面白いものを見つけた。
清水寺のガイド用PDAだ。
英語、中国語、韓国語の各国語があり、日本語は標準語と京都弁の2種類がある。
画面に写真と文章が出、イヤホンからは音声が聞こえるというもので、これを借りて境内を廻るというものだ。

京都弁というのを聞いてみたい気もしたが、また清水寺に戻って聞くほど聞きたいわけではないので、ただ感心してその場を離れた。

ゆるやかに下る清水坂から三年坂に折れ、途中の道を右に折れる。
細い急な坂道を登っていくとホテルりょうぜんがあり、その先で右に曲がる。
向かっているのは、正法寺。
京都を見渡せる絶景ポイントとされる場所だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

禁欲に耐えられなかったお坊さんの話:京都取材旅行第一回(3)

P1020138清閑寺を少し降りたところから脇に入る道がある。
この道を10分ほど行くと清水寺に着く。

「歌の中山」という言葉があるが、「歌の中山」とは、清閑寺から清水寺までの間の場所を指す。

江戸時代の終りに出された『都林泉名勝図会』にはこんな話が書かれている。

昔、清閑寺に住んでいたあるお坊さんが一人の美しい女性が歩いているのを見て、本来はは禁欲の身でありながら、その女性に対して異性に対する感情が起こった。お坊さんはどうしても話かけたくなり、思わず「清水寺へはどう行けばよいのでしょうか?」と尋ねた。

すると、その女性は
「見るにだに迷ふ心のはかなくて誠の道をいかで知るべき」
という歌を残して姿をかきけしてしまった。

その女性は化人のたぐいとも、清閑寺の本尊の化身とも言われる。

「歌の中山」とはその女が歌を詠った場所とされる。


清閑寺からの道を歩いているうちに、やがて清水寺の裏の門が現れる。
門と言ってもお寺にあるような木造の建造物としての門ではなく鉄でできたゲートである。
夜間は通行できない。

その門を抜けるとすぐに清水寺の子安塔が現れる。
子安塔は清水寺に2つある三重塔のうちのひとつで、境内の一番奥に建っている。
江戸時代初期のもので、明治末年までは仁王門の脇にあったという。
子安観音(千手観音)を祀り、安産祈願のための信仰を集めた。

ここからは清水の舞台の正面が見える。
その舞台へと向かった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

扇の要から京都を見下ろす:京都取材旅行第一回(2)

IMG_1518清閑寺の駐車場でタクシーを降りると、まず目に入ったのは高倉天皇・六条天皇の陵墓だった。
門は閉じられ中に入ることはできないが、山の上へと階段が続いている。
高倉天皇陵のそばに小督局の墓もあるらしいが見ることはできない。

その門の前を通って別の石段を上っていくと清閑寺がある。

さきほどのタクシーの運転手が
「行き先を清閑寺と言って乗った人は正直言って初めてですよ」
と言っていたように境内には誰もいなかった。

小さな本堂の中には菅原道真の作と伝えられる十一面観音が祀られる。
扉の隙間から中を覗くと中央に閉じられた厨子があるのが見えた。
この厨子の中に安置されているのだろう。

さほど広くはない境内の端に大きな石が置かれている。
この石のそばに立つと京都の市街が見おろせる。
京都タワーも良く見える。

この石は要石(かなめいし)と呼ばれ、この位置からは扇型に京都市街が見える。
この石の位置が扇の根元の要のようなので、この石は要石と呼ばれる。

この石に願をかけると願いがかなうという信仰もいつの頃からかできたそうだ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

とあるタクシー運転手との邂逅:京都取材旅行第一回(1)

P10201292月の3連休を利用して次に作る予定の本の取材(第一回目)に行った。
まだ本のタイトルは未定だが、大まかな内容は決まっている。
内容というのは、6+αのテーマを決め、それに沿って京都の神社や寺を紹介するというもの。

今回の旅行は平家物語と庭園の2テーマを攻めることとし、行くべきところを前日までに調べてピックアップした。

連れと共に昼少し前に新幹線で京都駅に到着。
タクシーに乗り、運転手に清閑寺と告げる。
車を出しながら「清閑寺に何をしに?」と運転手が少し不思議そうに尋ねてきた。
「平家物語のゆかりの地なので」と答えると、
「平家物語は詳しいですよ」と運転手はうれしそうに言い、清閑寺の小督局(こごうのつぼね)と高倉天皇、平清盛の話を得意げに話し始めた。

小督局は宮中一の美女と言われ、琴の名手でもあった。
高倉天皇が思いを寄せていた女童の葵が亡くなったことで落ち込んでいたのを見た高倉天皇の中宮である徳子がなぐさめようと連れてきたのが小督局だった。
そのとき、小督局には冷泉大納言隆房という恋人がいた。その恋人と泣く泣く別れて天皇に仕え、天皇の寵愛を受けるようになる。

これを知った平清盛は怒った。
徳子は清盛の娘であるし、隆房には清盛の第四女が嫁している。
娘の婿を2人も小督局に取られた、というわけだ。

清盛が怒っていることを知った小督局はひそかに宮中を抜け出し、ひとり嵯峨野に姿を隠す。

清閑寺に小督局の墓があり、高倉天皇の陵墓もすぐ近くにある。

そのタクシーの運転手は歴史の好きな人でいろいろと物語を読んだりしているという。
ただ、語ってくれた話はこちらも知っていることだったが。

そのうち、バスで観光するよりもタクシーを一日貸しきった方が安いという話をし始め、
「良かったらいろいろ案内しますよ」
などと言っていたが、人に連れられてあちこち回るのが嫌いな我々である。
あいまいに生返事などをしているうちに清閑寺に着いた。

「これからどうします?」
と聞いてくるので、清閑寺から清水寺まで歩いて街中にでる予定です、
と当初からの予定を言うと、
「そーですかー」
と非常に悲しげな声で言った。

車中、話が盛り上がっていただけに余計に残念だったのだろう。

京都でタクシーに乗ると時々こんな風に観光を勧められることがあるが、誘いに乗ることはないので最後が気まずい雰囲気になってしまう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)