2006年4月奈良・飛鳥

奈良へ(29):鬼の○○

そろそろ帰りの時間が気になる。今日中に帰らないといけないのだ。
自転車を漕ぎ、飛鳥駅に向かう。途中、自動車の通行量の多い道を避けて細い道に入る。偶然にもそこに前から見たいと思っていたものがあった。

鬼の俎(まないた)、鬼の雪隠(せっちん)だ。
雪隠とはトイレのこと。

鬼の俎

この石は両方とももとはひとつの古墳を構成する石だった。
俎が下部、雪隠が蓋石。いまは道を挟んで上側に俎があり、斜め下に雪隠がある。地震か何かの折に蓋石の雪隠がはずれて斜面を滑り落ちて今の場所に落ち着いたらしい。
写真では見たことがあったが、実際はこういう位置関係になっていたというのは始めて知った。何事も実物を見なければわからないものだ。

鬼の雪隠


もとは古墳の石だということがわからなくなった後の時代に、想像力豊かな人がこんな話を作った。

むかしむかし、このあたりに鬼が住んでいてのう、この鬼が悪いやつでの。
道を行く人があるとわざと霧を降らせ、迷ったところを捕まえてのう、この石のまないたで切り刻んでなべに入れて食ってしまったのじゃ。腹が満ちたら出すものを出さんといけないじゃろ。ほら、そっちの石じゃよ。そこの雪隠で用を足したのじゃ

こんな話をして子供らを怖がらせては喜んでいた老人がいたかもしれない。

再び自転車に乗り、飛鳥駅前のレンタサイクルショップに返却した。
ちょうど午後4時だった。京都発6時の新幹線には間に合いそうだ。

(『奈良へ』おしまい)


鬼の雪隠、鬼の俎

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奈良へ(28):川原寺の礎石跡

橘寺のすぐ前には広大な空き地があり、そこに石が点々と埋め込まれている。
川原寺の跡だ。法名を弘福寺ともいったとされる。
下の写真奥に写っているのがいまの弘福寺で、かつての中金堂の位置に建っている。
地面に埋め込まれた石は昭和32・33年の発掘で見つかった川原寺の礎石の位置にレプリカとして埋め込んだもので、本物ではない。

川原寺


川原寺は天智天皇が母・斉明天皇の川原宮の旧地に建てた寺で、かつては四大寺のひとつとして栄えた。
中金堂を中心とし、東に塔、西に西金堂が立ち並び、中門から出た回廊がこれらを取り囲む大きな寺院だった。
しかし、都が平城京へと移転したあとは、官寺としての地位を失い、やがて荒廃していった。

川原寺礎石レプリカと花

川原寺跡

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奈良へ(27):橘寺の石造物

のちの日本は木でいろいろなものを造って表現するようになるが、飛鳥ではこれをもっぱら石で表した。
橘寺の境内にも不思議な石が置かれている。

そのひとつは二面石。

二面石


片方から見ると善人の顔、もう片方から見ると悪人の顔が1つの石に彫られている。

二面石悪

二面石善

また、三光石というのもある。
聖徳太子が勝鬘経(しょうまんきょう)を3日間にわたって講義を行ったときに、大きな蓮の花が1メートルも降り積もり、南の山に千の仏頭が現れ光を放ち、太子の冠から日月星の光が輝いたという。
三光石というのは、日月星の光が出現した様子を表したものとされる。

三光石

この寺で説法のためにいつの時代にか造られたのかもしれない。しかし、そこには亀型石のような精緻な石の加工技術は伝わらなかった。それでもとにかく石で表現しようという心意気が飛鳥に連綿と伝わってきたことはこうした石を見ていても窺われるのだ。

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奈良へ(26):橘寺の如意輪観音

石舞台のところにレンタサイクル屋があって、しかも飛鳥駅に乗り捨て可能とあるのを見つけ、ここで自転車を借りることにした。

次に向かったのは橘寺。昔、時間がなくて素通りしたことがある。
今回、初めて中に入った。

橘寺本堂


橘寺は聖徳太子誕生の地とされている。(実際は別の場所が生誕地という説もあるようだ)

もとは橘宮という欽明天皇の別宮があった場所とされる。
聖徳太子は欽明天皇の孫にあたる。

西門をくぐるとすぐに五重塔の塔心礎がある。
円形の穴にミッキーマウスの耳状の穴が添えられている。ミッキーマウスの耳は添え柱の穴だという。
亀形石や酒船石を見てもわかるが、飛鳥には実に高度な石の加工技術があった。その技術はこの礎石にも見事に応用されている。

橘寺塔心礎

観音堂に入る。このお堂の本尊は六臂(腕が6本)の如意輪観音。
ふくよかな顔を腕の一本で支えて頬づえをついている。
ほとんど目を閉じたその表情は幸せそうでうたたねでもしているかのようだ。見ているこちらも幸せな気持ちになってくる。観音に本来、性別はないが、特に如意輪観音には母性を感じる。
藤原時代の作品で、この時代の仏像の特徴であるふっくらとした丸々とした体型は、如意輪観音が持つ母性性を表すのにふさわしいと思う。
国の重要文化財だそうだが、国宝にしたいくらいの像だ。

橘寺境内の木と青空


橘寺

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奈良へ(25):石舞台と桜

どこで見たのか忘れてしまったが、誰もいない満開の桜の中に石舞台がぽつんと写っている写真を見たことがある。いつかこれを生で見たいと思っていた。

その光景を今回、期せずして見ることができた。
午後のこの時間では人がいない光景など望むべくもないが、桜に囲まれた石舞台を見ることができた。
いつもの年なら4月の中旬にこんなに桜が咲いているはずはないのだが、これは天候不順に感謝しなければ。

石舞台


石舞台は蘇我馬子の墓である桃原墓(ももはらのはか)とされる。
本来は土の中に埋まっているはずの巨石は露出し、石棺が入っていたはずの玄室も空洞となっている。

馬子は、飛鳥川のほとりに邸宅を建て、庭に池を作り池の中央に小島を造ったことから、嶋の大臣(おとど)と呼ばれた。馬子の邸宅は石舞台のすぐ近くで発掘された島庄遺跡がそれだとされ、最近も新聞を賑わした。ちなみに、のちの時代の草壁皇子の「嶋宮」もこのあたりとされている。
馬子の孫の入鹿は乙巳の変で中大兄皇子らによって暗殺され、入鹿の父、蝦夷もその翌日、邸宅に火をかけて自害した。これによって馬子が全盛期を築いた蘇我本宗家は滅亡する。

一説によると蘇我家滅亡後に蘇我を憎んだ勢力によって墓はあばかれ、そのときから石はむき出しになったという。

石舞台

石舞台古墳


桃原墓と名づけられたからにはかつては、桃で囲まれていたのかもしれない。だとすると、ここは桜よりも桃の方がふさわしい。
数本だけだが、桃の花も片隅で咲いていた。

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奈良へ(24):神宿る山に登る

ミハ山、またはフグリ山と呼ばれる山がある。
ここは山そのものがご神体とされた飛鳥神南備山ではないかとされている山だ。
ミハ山と書くが、みわやまとよむようだ。
三輪山とは違う。しかし、同じ読み方の両方の山が神南備山なのは興味深い。

山というほど、高い山ではない。10数分ほどで頂上まで登れる。
登ってみると磐座と思しき岩がごろごろしていた。

Img_2976


現在は、国営飛鳥歴史公園として整備され、東と西にひとつずつ展望台がある。

下の写真は東展望台から望む飛鳥の景色。

中央のきれいな三角錐の山が耳成山、その右手前が香具山、左側は甘樫丘だ。

Img_2978


ミハ山

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奈良へ(23):置き去りにされた天皇の顛末

ミハ山の南に飛鳥稲淵宮殿跡がある。
それを示す石がただ一本。

この宮は飛鳥河辺行宮ではないかとも言われている。
645年、乙巳の変のあと、皇極天皇は変の首謀者である中大兄皇子に位を譲ろうとしたが、どういうわけか中大兄皇子はそれを固辞し、代わりに叔父の軽皇子を推挙した。その結果、軽皇子が即位し、孝徳天皇となり、皇太子の座に中大兄皇子を据えた。

Img_2974


即位後、孝徳天皇は大きな仕事を行った。
飛鳥にあった都を大阪の難波に都を移したのだ。

しかし、それは周囲の反発を招き中大兄皇子は孝徳天皇ひとりを置き去りにして、飛鳥に戻っていった。ともに戻っていった中には孝徳天皇の皇后、間人皇后も含まれていた。
そのときに飛鳥に戻った先というのがここ飛鳥河辺行宮ではないかと言われている。

大阪から見ると、ちょうどミハ山の裏手にあたり、その山影に隠れるような場所にあるこの宮は、孝徳天皇の追撃を恐れて選ばれたのではないかという気がする。ちょうど見晴らしのいい山が目の前にある。この山の上にはしばらく見張りがいただろう。

孝徳天皇が置き去りにされたあと、間人皇后に贈った歌が残されている。

かなき着け吾が飼う駒は引き出せず 吾が飼う駒を人見つらむか

「吾が飼う駒」とは間人皇后、「人」とは中大兄皇子のことだとされる。「見る」には古代、夫婦の契りを結ぶという意味があったという説がある。そうだとすると、これは中大兄皇子と間人皇后が特別な関係になったことを恨む歌だということになる。ちなみに中大兄皇子と間人皇后は同母兄妹の関係にある。

孝徳天皇はこの事件後、気を落として病になり、翌年に亡くなっている。

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飛鳥稲淵宮殿跡


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奈良へ(22):マラ石

稲淵の集落から道を下って、飛鳥の神南備山ではないかと言われているミハ山(通称フグリ山)の南側の祝戸地区までやってきた。

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そこにこの石が唐突にあった。
道端の地面からこの石が突き出している。
これをマラ石という。見たとおりのものだ。
ツレに「写真撮るからまたがってみて」、と言ったがさすがにそれは断られた。

すぐ近くには小さな石仏が祀られているだけで、回りには特に何もない。

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この場所は祝戸地区の南端であり、飛鳥の南端でもある。
マラ石という名前そのものの通りの意味合いもあったのかもしれないが、この石は本来は集落の内と外を区切るために置かれたものなのではないか、という気もする。
稲淵や栢森で見てきた勧請綱と同じ役割のもので、一種の結界として機能したものだ。
後の世では道祖神や地蔵がよく村はずれに置かれたりするようになる。

この石の棒は通称フグリ山の方を向いて傾いている。地元ではこのマラ石(男)とフグリ山(女)を一対のものと考えているのだそうだ。

ただし、当初はこの石はまっすぐ上を向いていたのだという。
安産祈願などで乗ったりしているうちに傾いたのかもしれない。


マラ石

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奈良へ(21):菜の花畑

道の右手は南淵山、左手には棚田が広がる。
道は南淵山を迂回するようにゆるやかなカーブを描いて下っている。

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棚田にはいくつもの菜の花畑があり、今を盛りと黄色い花が地面を彩っていた。
カメラを持った人や絵を描く人が大勢集まって思い思いの場所に陣取っている。
あんまり人が多いので、写真の会とか絵の会とかそういう集団なのかと思ったが、そうでもないようでひとり、乃至は小集団で集まって楽しげに絵を描いたり、写真を撮ったりしている。

三脚を立ててカメラを菜の花畑に向けてじっと畑を眺めているおじさんがいた。思わず釣れますか?と聞きそうになってしまったが、釣りをしているのではなかった。太陽が出るのを待っているのだろう。

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奈良へ(20):飛鳥川の飛び石と勧請綱

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明日香川 明日も渡らむ石橋の 遠き心は思ほえぬかも

飛鳥川にかかる飛び石の傍らの石に、この万葉集の句が刻まれていた。
静かに流れてきた飛鳥川の清らかな水は、この飛び石で水しぶきを上げて流れを速め、そしてまたもとのゆっくりとした流れに戻っていく。

この飛び石は飛鳥から見て、稲淵の集落の入り口に置かれている。古代からこの集落にとって大切な橋として使われてきた。

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そのすぐ下流には稲淵の勧請綱が掛けられている。
以前紹介した栢森の勧請綱と対になるもので、栢森が女綱なのに対して、こちらは男綱だ。綱の中央には男性のシンボルを表す稲藁が吊り下げられる。女綱の綱掛神事は仏式で行われるが、稲淵では神式で執り行われる。

ここを越えたら稲淵も終わりになり、段々畑を眺めながら飛鳥に向かって下っていくことになる。

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飛鳥川の飛び石


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奈良へ(19):竹野王

南淵請安の墓のすぐ近くに竜福寺という寺があり、その境内にひとつの石塔が立っている。

銘の入った石塔としては最古のものだという。
この石には天平勝宝三年の年号と従二位竹野王の名が刻まれている。
天平勝宝三年は西暦で言うと、751年にあたる。
萌年表の付属年表でこの頃の出来事を見てみると、天平19年(747)に鋳造を開始した東大寺大仏の開眼供養が、5年の歳月を経て天平勝宝四年に行われていることがわかる。大仏鋳造と同時期に作られた石塔ということだ。

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よーく目を凝らしてみると、「従二位竹」まではどうにか読めるが、それ以上はそういわれればそうかなあ、という程度にかすれている。

竹野王という人がどういう人なのかはよくわからないらしいが、平城京から出土した長屋王家の木簡にその名が書かれていたそうだ。
ちなみに長屋王その人は、この石塔の年号の22年前の天平元年(729)に謀反の疑いをかけられ自害している。

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ここ稲淵の集落は南淵漢人と呼ばれた渡来人が多く住んでいた。
稲淵はかつては南淵という地名であったという。前回紹介した南淵請安もその家系の人である。

朝鮮式とも言われるこの石塔を造った竹野王はやはり渡来人と深く関わっていた人物なのだろう。

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奈良へ(18):南淵請安の墓と桜の木

飛鳥川沿いの道を降りていくとやがて稲渕の集落へとたどりついた。
丘の上に大きな一本の古木が見えた。落雷でもあったのか、その木は焼け焦げていた。
それでもこの木は集落にとって大切な木であるらしく、そのままの姿で残され、その周囲を若い桜の木々が、その木を守るかのように満開の桜を静かに散らしていた。

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その丘の上の桜のあるところが南淵請安(みなぶちのしょうあん)の墓だった。
南淵請安という人は、江戸時代の漢学者のような名前をしているが、実はずっと古い時代の人だ。
飛鳥時代の推古十六年(608)に小野妹子に従って遣隋使として隋に渡り、そのまま30有余年の間留まったあと帰国している。既に隋は滅び、唐が栄えようとしていた時代である。

西暦645年、乙巳(いっし)の変が起こる。中大兄皇子と中臣鎌足が宮中の皇極天皇の面前で蘇我入鹿を暗殺した事件だ。そして、この事件は大化の改新と呼ばれる大きな変革運動へとつながっていく。

この事件の前、中大兄皇子と中臣鎌足はたびたび南淵請安の私塾に通い、その道すがらふたりは計画を練っていたという。

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桜の花びらが音もなくただただ、はらはらと散っている。請安が祀られる祠は散りゆく桜の花びらの中にあった。この祠のすぐ後に、さきほど下から見上げた焼け焦げた古木が立っていた。この木が長い間、祠を守っていたのだろう。

飛鳥時代、大きな変革を実行したふたりに教えを与えて、ふたりの活躍を見守った南淵請安は、いまは永遠の桜守の役目を担って、静かにたたずんでいる。

南淵請安の墓

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奈良へ(17):うすたきひめ

飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社(あすかかわかみにますうすたきひめのみことじんじゃ)。
それがこの神社の名前で、飛鳥川の川上にいらっしゃるウスタキヒメのミコトの神社という意味を持つ。
ウスタキヒメのウスは臼または渦、タキは滝を表すという。水の神であり女神だ。

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皇極天皇はこの地で雨乞いをしたという記述が残っている。

天皇、南淵(みなぶち)の河上に幸(いでま)して、跪きて四方(よも)を拝む。天を仰ぎて祈いたまふ。即ち雷なりて大雨ふる。

この南淵の河上こそがこの神社の地であると言われている。このとき、水の女神は天皇の雨乞いに対して、無事に雨を降らせ、面目を躍如した。

この神社へは下の道路から天に向かうかと思えるような急な石段を登っていく。長い長い石段である。
それを登り終えるとスロープ状の道がつづら折れにある。
見上げると石の鳥居があり、その奥に霧に霞んだ神社の建物があった。

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この神社のある山は、山自体をご神体として信仰された神奈備山であろうとされる。
それゆえか、ここは神寂びた雰囲気に包まれ、一種霊妙な感じだ。

拝殿があり、その奥には注連縄のある扉があるが、その扉の奥には建物がある気配はない。そこから先はただ山があるだけだ。
やはり三輪の大神神社と同じで、山そのものを拝むため神殿はないのだろう。

再び、山を降りる。雨に濡れた幅の細い石段を慎重に降りていく。
降りるときに足を滑らせて頭を打ったりしたら、ただではすまない事態になるだろう。
ようやく下の道にたどりついたときには生き返ったような気持ちになった。

日本の神々は生まれ変わりと密接に関係している。
古来より、春になると新しく生まれたばかりの山の神を里にお呼びして、田畑に生命力を分け与えてもらい、秋の収穫が終わると年老いた神には再び山にお帰りいただくということが行われてきた。
神が生まれ変わることによって、そこに新たな生命力が吹き込まれる、と考えるのだ。
天の岩戸神話や神社の式年遷宮などいずれも生まれ変わりをモチーフにするのだと思う。

イザナギノミコトはイザナミノミコトを追いかけて黄泉の国に行った後、戻ってきてから禊を行うが、そのときに子を産んでいる。これも甦ることによって新たな生命力を得ているわけだ。

この神社の長い石段を降りたとき、ああ無事に生きて戻ってきたと思った。神社に行ってお参りするというのもこういう甦りの疑似体験をしているのではないだろうか、という考えがそのときふと頭をよぎった。

飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社


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奈良へ(16):謎の祠、発見

女綱から少し下ったところで、あか茶けた錆の浮いた手すりのある石段があるのが目に入った。
石段の上には灯籠のような石が2本立っている。

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石段を登っていくと、そこには石の棒が立てかけてあり、お供えがしてあった。
まら石か?と思ったが、それは宝珠のようでもある。
わざわざ手すりと石段まで造るのだから、よほど重要な祭祀の場なのだろう。

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お供えの場所は微妙に石の棒とは違う場所に向かっている。
上を見上げると祠が祀ってあった。巨大な岩が露出し、その岩の上に祠が置いてあるのだ。
となると、この巨大な岩石は磐座だろう。
そうだとすると、古代においては、この岩そのものが重要な信仰の対象となっていたはずで、この立てかけてある石の棒はあとから誰かが持ってきたものに違いない。


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その昔、登ったことがあるが三輪山にも磐座がある。この山の場合、三輪に本拠を構えた崇神天皇の時代を中心として、国家レベルで祭祀された。そういう磐座もあるが、ここのようにこの近辺の集落だけで人知れず大切にされてきた磐座もあるということなのだな、とこの場で納得した。

ところで、三輪山に登ったあとで知ったことだが、磐座信仰というものはとっくの昔に廃れたものかと思っていたのだが、どうやらそうでもなく、今でも三輪山に登っては磐座を一生懸命に拝む人がいるらしい。

だから、この磐座もいまでも現役で拝まれているのだろう。
こういう場に敬意を表しつつ、われわれはそっとこの場をあとにした。

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奈良へ(15):栢森のカンジョ掛神事

加夜奈留美命神社を出て、坂道を下り、栢森の集落の外れまで来るとバス停があった。
このバス停はなんと木でできている。
その姿が飛鳥の景観とよく合っている。トトロに出てくる猫バスでもやってきそうだ。

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両側を山に囲まれた飛鳥川沿いの雨に濡れた舗装道路を歩く。
少しすると飛鳥川を一本の太い縄がかかっているのが見えてきた。

栢森の勧請綱だ。縄の中央には藁で作った蜂の巣のようなものが吊り下げられている。
ここから下流の稲淵にも同じように飛鳥川にかかる縄がある。稲淵のは男綱、ここ栢森のは女綱と呼ぶ。
男・女で呼ぶことからわかるように、この蜂の巣のような形のものは女性器を表している。
下流の稲淵には男性器をかたどったものが吊り下げられる。

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この縄を飛鳥川に張ることによって、悪疫などが飛鳥川を通って集落に入ってこないように、そして、子孫繁栄と五穀豊穣を願うのだ。この縄は一種の注連縄であり結界の役目を果たしている。

綱掛神事は毎年旧正月11日に行われ、綱を張り替える。カンジョ掛けとも言う。
栢森では傍らにある福石(陰物ともいう)という石の上を縄がまたぐように掛けられる。

古代においては石の上に神を降ろし、吉凶を占ったりした。その石を磐座(いわくら)と呼ぶ。この福石も磐座のひとつであり、神聖な石として崇められている。

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性のエネルギーというものも古代では神聖視された。その古い形態の信仰が飛鳥には色濃く残っていて、飛鳥川下流には男性器をかたどったマラ石があるし、飛鳥坐神社ではおんだ祭という結構露骨な性神事が行われる。

こういう古い形の神事が残っているという点でもこの飛鳥という地は本当に面白い。


栢森の勧請綱

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奈良へ(14):かやなるみのみこと

翌朝、ホテルの窓から外を見ると昨日から降り続いていた雨は上がっているようだった。テレビの天気予報だと今日はこのあと晴れるらしい。

タクシーに乗り込み、栢森(かやのもり)の加夜奈留美命(かやなるみのみこと)神社へ、と告げる。タクシーは飛鳥を抜け、飛鳥川上流にある栢森という小さな集落に向かった。
栢森をさらに登っていくと芋峠があり、この峠を越えれば吉野だ。

夫である天智天皇を亡くしたあと、女帝として飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位した持統天皇はこの芋峠を越えて、何度となく繰り返した吉野の宮滝離宮へと行幸したと伝わる。

「ここから飛鳥まで歩いて下るの?」
なんだ運転手さん、よくわかってらっしゃる。
栢森から飛鳥まではずっと下り坂だ。それでタクシーを使って、ここを出発点とし、飛鳥駅か岡寺駅まで歩くという作戦なのだ。

でも、今度タクシーでここまで来て同じことを聞かれたら、
「いえ、ここから芋峠を越えて、吉野まで」
と答えるだろう。それはまたいつかやりたいと思っている。

タクシーを降りると小さな、それでも威厳のある神社が目に入った。
祀られているのは神社の名前のとおり、加夜奈留美命。

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文字を持たなかった日本に大陸から漢字が入ってきた頃、日本語の音に合わせて漢字を当てはめて文字を書いていた。こうして当てはめていた漢字が、やがて今のかなへと変化していった。だから加夜奈留美は日本語の音に対する当て字であって、この漢字には特に意味がない。

この頃の原初の日本人は、現代人の目に付かない場所で今もこの日本に生息しているらしく、橋桁なんかに「夜露死苦」などと、かなを使わずに書いているのはこうした人たちのしわざなのであろう。

話がそれたが、加夜奈留美命という神は出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)にその名が出てくる。
この中に、大穴持命(おおなもちのみこと)が天孫に国譲りをし出雲に去るとき、自らの和魂と子女の御魂を大和に留めて大和朝廷の守護としたことが書かれているが、そこに「賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて」としてでてくる。出雲系の神で、女神であると考えられている。
出雲国風土記にはこの神の名はなく、あまりどのような神なのかよくわかっていないようだ。

かつてはこの神社は葛神社と呼ばれていたが、江戸時代に『大和志』という書物で比定されて以来、この神社が加夜奈留美命と考えられるようになったらしい。
しかし、栢森が加夜奈留美に似ているからという以上の理由はなく、しかも、飛鳥からは遠く離れていることから、出雲国造神賀詞に「賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて」とされた場所は、ここではないとする説が一般的だ。

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それはともかくとして、この神社が栢森の集落の人々から大切にされてきたことは、掃き清められた境内や社を見ればすぐにわかる。
木々に囲まれ、建物の屋根も鳥居はひどく苔むし、古社の風格を感じさせる。
拝殿内に入ると、古い写真が額に入って掲げられている。日支事変記念と書かれた大きな日の丸もある。時間感覚がおかしくなりそうだ。
そこにはお祭りに使ったときの道具と思われるものなども乱雑にしまわれていた。

よそ者があまりいつまでもいるべきではなさそうだ。少し居心地の悪さを感じて、早々に神社を出ることにした。
神社の近くにはこんな看板もあった。
こういうものが平然とあるから奈良は面白い。

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加夜奈留美命神社

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奈良へ(13):重源展

奈良国立博物館に行く。
旧館は京都国立博物館や東京国立博物館を手がけた片山東熊、新館は吉村順三の設計による建物だ。
吉村順三はこの本の著者でもある。

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新館の前には水が張られ、そのすぐわきを地下回廊へのなだらかなアプローチがある。ここを降りていくと全面ガラス張りの喫茶店の入り口となる。
上に見えている新館の建物はクラシックな感じなのに、地下は現代的なガラス張りになる。あたかも水の下へともぐっていくようなアプローチを降りていくことによって、徐々に上のレトロな世界から下の現代的な世界へと変わっていく感じがすごく面白い。

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さて、この日やっていたのは「大勧進 重源」。重源とは平重衡によって焼かれた東大寺を再建するために尽力した人だ。重源は阿弥陀如来に深く帰依し、自らを「南無阿弥陀仏」と名乗った。
その重源のもとで多くの仏像を造ったのが快慶で、彼もまた重源の影響で浄土信仰を篤くし、「安阿弥陀仏」と名乗り、造られた仏像の多くには快慶ではなくこの名前で署名を残している。

この展示ではこの重源に関係する多くのものが展示されていた。
入り口を入るといきなりこの展示のメインがいらっしゃる。
重源その人の像だ。背中を丸め首を前に出した格好の老人が手に数珠を持って座っている。
顔には皺の一本一本が刻み込まれ、今にも何かものを言い出しそうなリアルな像である。写真ではよく見る像だが実物は初めてだ。

東大寺の仏像を再建するにあたって運慶が法華経を写経し、関係する仏師が署名をした運慶願経もある。運慶始め、安阿弥(快慶)、運慶の子らの名が書かれている。これも初めて実物を見る。

快慶の僧形八幡神もある。これも写真以外では初めて見るものだ。
色がすごくよく残っている。しかも、造られてから一度も塗りなおされていないのだという。神像なのでめったに表には出さなかったためだろう。

最後の展示には東大寺と五却院の五却思惟阿弥陀如来が背中合わせに座っている。
修行を長く積んだため、髪が伸び放題になった様子を表したもので、現代人はこの髪型をアフロと呼んで、笑いをかみ殺しながら拝むのである。
昔の人はすごいものを造ったものだ。

そこへ、子供連れの家族がやってきた。「これこれ。これを見ておかないと」と父親が子供に言い聞かせていた。
いつも奈良博に来るたびに思うのだが、ここの客層はかなりマニアックだ。結構、知識のある人が見に来ている。いや、奈良博がミーハーな企画をやらないからとも言えるかもしれない。

独立行政法人になって入場者数を増やさなければならない立場になっても、「大勧進 重源」というあまり一般受けしないタイトルで展示をやっている。これなんかも「慶派の仏像勢ぞろい!」とかサブタイトルでも付けたらもう少し人が来そうなものだが、そうしないのが奈良博のいいところだ。
おかげで人も少なくゆっくり見ることができた。
だいたいここは正倉院展があるから入場者数は気にしなくてもいいのかもしれない。

夕方、奈良博を出て、今日の宿の橿原ロイヤルホテルへ。ここ数年、飛鳥方面に行くときの常宿となっている。
お勧めはタタミの部屋だが、今回はとれず、洋室の部屋となった。
何年か前にできた温泉大浴場があり、部屋に用意してある作務衣を着ていく。
最上階にある「スカイレストラン 橿原」での畝傍山を見ながらのフランス料理がわれわれのお気に入りで、ここに泊まると必ず行っていたのだが、今回はツレの希望でさっぱりと1階の喫茶店で夕御飯となった。

今日、一日降り続いた雨も明日は上がってくれるといいが。

奈良国立博物館

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奈良へ(12):元興寺極楽坊

正確に東西と南北に直交する奈良町の道を歩いていると、元興寺極楽坊が見えてきた。
特に寄るつもりはなかったが、横を通って素通りするわけにもいかず中に入った。来たのは5年ぶりだろうか。

この寺の前身は、今も飛鳥にある法興寺(飛鳥寺)だ。
飛鳥寺は西暦588年に蘇我馬子が飛鳥の真神原に建立を始めた寺で、日本最初の本格的寺院とされる。
当時権勢を誇った蘇我本宗家も西暦645年には馬子の孫、蘇我入鹿が中大兄王子と中臣鎌足によって殺害され、その父蝦夷も自害することで、終焉を迎えた。

その後、法興寺は、奈良遷都後に、この地に移され元興寺と名を改め、広大な寺地を得た。

蘇我家の氏寺だったはずのこの寺があるじを失ってなお、どうして飛鳥に置き去られることなく都とともに移転してきたのかはどうやらよくわからないらしい。

やがて、広大な寺地を誇ったこの寺も時代が下るに従って衰退していく。しかし、平安時代の浄土信仰の広まりによって元興寺は極楽坊を中心とした地だけが勢いを盛り返した。
奈良時代の智光という僧が、この房で浄土教の研究に専念していたことから、ここが南都における浄土信仰の中心地として栄えたという。

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本堂に入る。
ここに来るのは3度目ではないかと思うが、本堂に入った記憶はなぜかない。

大きな智光曼荼羅図があった。不覚にもこれは知らなかった。
智光が感得したという浄土の様子を描いたもので、最初のものは天平時代に描かれたと伝わる。この曼荼羅が日本で一番最初に作られたもの、と書かれていた。

当麻寺には中将姫が自ら織ったという当麻曼荼羅という同じく浄土の様子を描いた曼荼羅がある。これが一番古いものだと思っていたが、智光曼荼羅の方が古かったのか。

隣に建つ収蔵庫で展示を見ていたら、掃除をしていたおじさんが、「この智光曼荼羅が日本で最初に作られた曼荼羅なんです」と話しかけてきたので、ちょうどいいと思って聞いてみた。
「当麻寺に当麻曼荼羅というのがありますが、あれよりこちらの方が古いんですね」と尋ねると、一瞬うろたえた目をして「ええ、寺ではそう伝わっています」と答えた。どうやら、必ずしも確信があってそう言っているわけでもないようだ。

その後、そのおじさんは別のおばさんグループにも同じことを言って、おばさんから「当麻曼荼羅より古いんですね。」と同じことを聞かれていた。(なんだよ、真似すんなよ!)

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本堂と僧坊の屋根には飛鳥寺から持ってきた瓦がそのまま使われている部分が残っている。この重なり合った丸瓦の葺き方を行基葺きという。
飛鳥寺では日本で最初に作られた瓦が使われた。その瓦がいまも元興寺の屋根に使われている。


元興寺極楽坊

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奈良へ(11):雨の中の出発

翌朝は雨。今日と明日は飛鳥を歩く予定だったが、1日雨ということなので、今日の飛鳥行きは断念し、奈良町近辺を少し歩いた後、奈良国立博物館に雨宿りを兼ねて行くことにした。奈良博ではちょうど重源展をやっていて、面白そうなので今回行くかどうかを迷ったあげく、あきらめようと思っていたものだ。

仲居さんから、たぶん別のお客さんが忘れていったものらしいピンクの少し薄汚れた傘を貰った。
その一本の傘をふたりでさして宿を出た。

さて、奈良町は、というとこっちの方はあまり来たことがないのでよく知らない。元興寺に昔行った程度だ。
今回はガイドブックは持たず、ただポケットサイズの地図を1冊持ってきていただけなので、記憶の中から行ったことがなくて、かつて興味を惹いたことのある寺名を思い出す。そして、十輪院に行くことにした。

途中、荒池ごしに興福寺の五重塔や南円堂を眺めながら歩き、やがて住宅街の中に建つ十輪院を見つけた。

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この寺はかつて、奈良時代の元正天皇の勅願寺で、元興寺の子院のひとつだったとされる。
当初は大きな寺院として隆盛を極めたのだろうが、誰もいない雨の境内にたたずむこの本堂からは往事の姿を思い起こすすべもない。

しかし、勾配の低い屋根に正面には蔀戸が取り付けられた、この小ぶりな本堂は静かなこの町にふさわしく品のいいたたずまいをしている。

境内には鎌倉時代の古い不動明王の石仏や石に線刻した愛染曼荼羅、十三重石塔などがあった。

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少しするとふたりの外国人男女を連れた日本人の女性がやってきた。英語でしきりに境内の石仏などについて説明している。奈良で英語のガイドのボランティアをしているという人が、奈良関係のメーリングリストにいたが、その人かなあ。
途切れることのない説明が終わり、彼らが境内を出て行くと、われわれは、再び雨の音しか聞こえない静寂の中に取り残された。


十輪院

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奈良へ(10):あこがれの江戸三に泊まる

奈良公園の敷地内に「江戸三」という旅館がある。客室のそれぞれはなんと公園内に点在する独立した趣の異なる家屋なのだ。
明治40年に料亭として営業を始めたそうで、その風雅な趣に惹かれて志賀直哉、小林秀雄など多くの文人墨客が訪れたという。

そこに一度泊まってみたいと思っていた。

興福寺からそぞろ歩いていると、春日大社の一の鳥居が見えたと同時に、その向こうに瀟洒な古びた日本家屋が点々と建ち、それぞれに灯りが点っているのが見えた。あれか。

建物は見えるがどうやっていくのかわからず、影向の松の立つところを強引に登り、林の中を通った。
ちなみに、影向の松とは、春日大明神がこの松の下に姿を現し、翁姿で万歳楽を舞ったと伝わるものだ。どこの能舞台にも必ず正面の板壁に松の絵が描かれているが、それはこの松がモデルとなっているとされる。

江戸三と書かれた建物がフロントとなっていて、そこで予約してある旨を告げると仲居さんがわれわれの部屋となる建物へと案内してくれた。各建物には「太鼓」「銅鑼」などの名前が付けられている。電話のなかった時代、建物には鳴り物が据えられ、用事があるときはそれを鳴らして人を呼ぶようになっていた。建物ごとに異なる鳴り物があり、呼ばれた側はその音でどこから呼ばれたかがわかる。その名残でいまもその鳴り物の名前で呼ばれている。
今日われわれが泊まる建物は「太鼓」だ。
玄関を入ってふすまを開けると八畳ほどの部屋があった。雪見障子を上にあげると外の林が見える。満開の桜の木も見え、窓を通してみる景色はまるで一幅の絵のようだ。

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古い木造の建物で壁の二面から障子を通した白い光が入ってくる。普段、コンクリートの建物に住んでいるせいか、このほどよい広さの部屋の畳に座っているだけで、楽しい気持ちになってくる。
木枠のガラス窓にはねじ込み式の鍵がついている。家も昔はこういう鍵だった。ねじをねじ込んでいくと2つの窓が次第に締め付けられていく。現代の生活の中で忘れかけていた感覚で、1アクションで開け閉めができる今のサッシの鍵とは違って、1回転、2回転、3回転し、ようやく鍵の開け閉めが完了する。そこに、自分は窓に鍵を掛けているのだという達成感のような喜びさえも感じる。そんな単純な行為に喜んでいる自分がまた楽しかったりする。

玄関にはいつのまにか下駄が用意されていた。下駄を履くための足袋も用意されている。初め、普通の靴下のままで下駄を履こうとしたが、どうやっても履けない。当たり前だが、足の親指と人差し指で鼻緒をはさむことのできない靴下では履けないのだ。初めて経験した。

風呂は別の建物にある。風呂にはその下駄を履いていった。下駄の音が心地いい。

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食事は夜も朝も部屋まで運んできてくれる。料理旅館を名乗るだけあって料理もおいしかった。

いままで古い建物を売り物にした旅館やホテルにいくつか泊まったことがあるが、こんなに楽しい宿は初めてだ。自分の家にいるようにくつろげる。

ただ、今の家屋のように壁に断熱材が入っているわけでもない昔の家なので、エアコンによる暖房はあるものの寒冬期は壁からしんしんと冷たさが入ってくるだろうから、そういう時期だとそれなりの覚悟がいるかもしれない。
だから古い家の良さを知る人だけにお薦めしたい。

またいつか泊まってみたいと思う。

江戸三

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奈良へ(9):東金堂の極私的体験

いまから10数年ほど前、奈良や京都の寺をひとり巡っては、やたらと仏像を見ていたことがあった。会社を辞めてフリーになる準備を始めたころのことだった。将来への不安がそういう行動をとらせていたのだと思う。

そんな日の夕暮れ、興福寺を訪れて閉館ぎりぎりの時間に五重塔の隣に建っている東金堂に入ったときのことだった。ちょうどお堂の前には修学旅行生が大勢集まり、教師が枯らせた声を上げながら生徒たちを整頓させていた。お堂の中まで入ってくる彼らのざわついた声を背後に聞きながら、東金堂の本尊である薬師如来を見上げていた。
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金箔がところどころはがれて痛ましい顔となっていたが、薬師如来が背負う光背には痛みもなく、格子戸のすきまから差し込む夕日がひときわ金色の輝きを引き立たせていた。光背には数々の舞姿の天女が取り付けられ、その姿をきれいだなあ、と思いながら眺めたりしていた。

気が付くとざわついていた修学旅行生たちもどこかに移動し、あたりは静寂に包まれていた。
薄暗いお堂の中の薬師如来の両側には日光・月光菩薩が、壇の四隅には四天王が立っている。視線をその中間に向けたときに、殺気のようなものを感じた。闇の中にたたずんでいた十二神将のうちの一体が、抜き身の刀を持って、狂気をおびたつり上がったまなじりをこちらに向けていたのだった。
「オマエハイッタイココデナニヲシテイルノカ」
と問われた気がした。目が覚めた心地だった。
それで迷いがなくなって気持ちがふっきれた、なんて話は下手な小説やドラマならあるかもしれない。
その後も何かにつけ迷いに迷っているが、少なくともそのとき以来自分以外の何かにすがろうという気持ちはなくなった。そして、その後、フリーになり10年が経過する。

以来、興福寺を訪れた時には必ず東金堂に寄ることにしている。しかし、だんだんとこの十二神将を見ても感じることが少なくなった。
そして、今回も当然のように東金堂を訪れた。だが、今回に至ってはまったく何も感じるものがなく、ただの置物以上のものではなくなっていた。
それはさびしいことでもあるけれども、自分にとってはいいことなのかもしれない。


興福寺・東金堂

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奈良へ(8):阿修羅に会いに

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桜の散る吉城川を眺めながら東大寺境内を出る。
めざすは興福寺国宝館。
途中の氷室神社も桜でいっぱいだ。

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興福寺の国宝館に入る。ここに来るのは何度目だろうか。

入り口から入って順に展示物を見る。
リアリティ溢れる金剛力士像のところに来る頃には、もう気が急っている。
その隣が、八部衆の並ぶガラスケースであり、その中央に阿修羅が立っているのだ。
八部衆とはもともとは古代インドの八神であり、仏教に取り込まれて仏法を守護する神となったものだ。

八部衆のガラスケースまで来た。そこまで来てもまだ阿修羅を目に入れないよう順番に見ていく。

大きな目を見開き、大きな口でうなりをあげるような異形の顔の鳩槃茶(くばんだ)。
くちばしをもち、斜め横を向いて何かを凝視する迦楼羅(かるら)。
あごひげを蓄えた渋めの畢婆迦羅(ひばから)。
皆、いい表情をしている。

そして、その隣がいよいよ阿修羅だ。
3つの顔と6本の腕を持つ。
うち2本の手は胸の前で合掌し、他の2本は宙に捧げている。いまは何も持っていないが本来はこの手は日輪と月輪を持つ。

中央の顔は眉根を寄せて、目を大きく見開いてまっすぐ正面を見据えている。
少年のような少女のような憂いをふくんだ阿修羅のまなざし。
純粋で無垢な目をしている。この目を見ていると切なくなってくる。
このまなざしは何を見据えているのか。

仏教伝承では、阿修羅は須弥山の北に住み、帝釈天と戦い続けたとされる。
戦いの神である。
どうしてその阿修羅がこんなに静かな表情を見せているのだろう。

この八部衆は、光明皇后が母、橘三千代の菩提を弔うために建立した西金堂の本尊、釈迦三尊の周囲を取り囲む眷属として造られた。その造仏を指揮したのが将軍万福で、百済系の渡来人であるとされる。

このまなざしは、将軍万福の祖国を思う気持ちを投影しているのだろうか。
あるいは、光明皇后の希望だったのかもしれない。

聖武天皇の奥さんであった光明皇后は施薬院を置き、自らの財によって薬草を集めて、病者に施し、また悲田院で貧窮者の救済にあたり、深く仏教に帰依した。
八部衆が皆、童顔で穏やかな顔をしているのは、光明皇后のやさしさの優しさの反映とも思われる。

その近くには天燈鬼、竜燈鬼が置かれる。
こちらはツレのお気に入りだ。
小さな鬼が肩で灯籠を担ぐ天燈鬼、頭の上に灯籠を載せてちょっとおどけた顔をしている竜燈鬼。
この鬼の表情がなかなかいい。

しかし、どうしても目は阿修羅の方に行ってしまう。
阿修羅のまなざしがどうしても気になってしまうのだ。

いつまでもいるわけにもいかないので、後ろ髪を引かれる思いで国宝館をあとにした。

興福寺国宝館

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奈良へ(7):南大門

道はやがて大仏殿に伸びる参道に行き着いた。
ここはやはり人が多くてにぎやかだ。
鹿せんべいを持った子供らが鹿に追いかけられ、それを興味深そうに外国人が眺めていたりする。
あれっ、脇でやっていた工事で使われていた小型ユンボをじっと見ている外国人もいるぞ。

この参道を巨大な南大門が覆いかぶさるようにして立っている。
この門には向かい合わせに二体の金剛力士像が配置されている。口を開いている阿像と口を閉じる吽像だ。
この像は運慶、快慶ら4人の大仏師と12人の小仏師らの手によってわずか69日で造られたというものだ。父・康慶のあとを継いで慶派仏所の責任者となっていた運慶は、このとき総指揮を取った。
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運慶の現存する最古の作品である大日如来像が奈良・円成寺に残されている。
若々しくはつらつとした印象を与えるこの像は、当時20代だった運慶が早くから非凡な才能を発揮していたことをうかがわせる。そして、その像には運慶の名が記されている。仏像に作者の名を残すことは当時、珍しく早くから運慶が仏像を単なる信仰の対象ではなく芸術的要素も見出していたことをにおわせる。

そして、老成した運慶は、今度は工房の総責任者として南大門に巨大な金剛力士像を建立した。
ただ大きいだけでなく造詣的にも非常に優れた像を。

改めてこの像を見上げてみると本当に大きい。
初めに小さな雛形を造り、それをそれぞれパーツごとに拡大して分担して造ったのだという。
それにしてもこんな巨大なものをよく69日で造ったものだと思う。

南大門を見上げる。
頭の中のイメージではもっと重厚で無骨だと思っていたが、いま改めて眺めていると意外なほどに繊細で軽やかだ。
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平重衡によって南都が炎上したのは治承4年(1180)12月28日のことだった。このときに東大寺はほとんどの堂宇を失った。
この再建に奔走したのが重源という人物だ。当時の中国である宋に三度行ったというこの人は宋の様式を大胆に取り込んだ。
南大門もその様式に従って建てられた。大仏様(だいぶつよう)と呼ばれる様式によるこの門は、雲のように幾重にも重なった斗栱が軒を支えている。それが巨大な建物なのに、かえって軽やかな印象を与えているのだろう。

入江泰吉氏の作品に雪がしんしんと降る中で撮った南大門の写真がある。
やはり、氏も雪の軽やかなイメージと重なるものがあったに違いない。

南大門

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奈良へ(6):桜の園

茶屋をでて歩いていると、茫洋としたほんのりと赤みを帯びた雲状のものが目の前に広がっているに気が付いた。
何かにひきつけられるようにしてそちらに歩いていくとそれは一面に桜の花が咲いているのだった。
知らなかった。東大寺にこんなに桜があるなんて。
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恐ろしいくらいに桜に囲まれている。みな、風にあわせてはらはらと花びらを散らせている。
そこにいるのはわれわれの他には鹿だけ。
鹿たちはみな、花見をするでもなく、地面からわずかに伸びた草を無心に食べ続けている。
人の気配に顔を上げた1頭の鹿は両方の鼻の穴が桜の花びらで埋まっていた。そして、何事もなかったかのように再び首をおろし草を食み続けた。

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東京でこれだけの桜があったら、場所取りのござでいっぱいになり、気の早い酔客が宴会をしているだろう。
奈良の人はそんな無粋なことはしないのだ。
時折人が通るだけの静かな桜の園。
ぞっとするくらいに美しかった。


東大寺の桜の園

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奈良へ(5):茶屋の甘酒

法華堂前の石段を降りていったところの茶屋に入り、甘酒を注文した。
春とはいえ、花冷えのする夕方で、ツレの提案で暖かいものを飲むことにしたのだ。
やがて出てきた甘酒はショウガのたっぷり入った上品な甘さで、すぐに体が温まってきた。
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茶屋といえば、二月堂の脇に古い茶屋がある。
司馬さんの『街道をゆく』の奈良散歩にも出てくる。下ノ茶屋という名前だそうだ。
「この茶店は、何年つづいているんですか」
「何百年でっしゃろな」
「三百年ぐらいですか」
「そうでっしゃろかな」
というとぼけた会話とともに登場する。

一度入ってみたいと思っているのだが、以前は修学旅行生に占拠されていて入れず、今回は巨大な犬が店先に鎮座していて入れなかった。ツレが犬恐怖症なので、近寄れないのだ。
犬恐怖症でなくてもあれだけ大きな犬が店先にいたら、ちょっと敬遠する。
(その後、下ノ茶屋は既になく、下ノ茶屋と思っていた茶屋は龍美堂というのだということが判明した。下ノ茶屋というからには二月堂の下の方にあったのかもしれない)

法華堂前の茶屋は早くも店じまいしていたので、今回は石段を降りた下のみやげ物やの隣にあった店に入った。こうやってみると、東大寺境内は結構店がある。

この茶屋の隣のみやげ物やはこの店と繋がっていた。
甘酒を飲み終わってちらっとそちらを見ると鹿せんべいが置いてあり、その奥には鹿セーム皮が置いてあった。
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奈良の鹿の皮かどうかはみなかったが、考えてみればこれだけの鹿がいれば、死んだ鹿を自然に朽ちるまで置いておけるわけがなく、誰かが処理しているのだろう。そのときに皮をいただいて製品にしているのかもしれない。
検索してみると奈良特産品としてでてくるので、やはり奈良の鹿なんだろう。

さすが寺の境内だ。生と死が当たり前のように同居しているではないか。

法華堂下の茶屋

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奈良へ(4):法華堂の宝石箱

誰が言ったのか忘れてしまったが、法華堂(三月堂)のことを宝石箱と表現した人がいた。
法華堂には中央に巨大な不空検索観音が立ち、両脇に(伝)日光・月光菩薩、四隅を持国天、増長天、広目天、多聞天の四天王が配され、その間に二体の金剛力士、地蔵菩薩、不動明王、梵天、帝釈天、吉祥天、弁財天が置かれている。
さらに、不空検索観音の背後の厨子には通常非公開だが、後ろ向きに執金剛神が安置され、全部で16体もの仏像がさして広くもない堂内に安置されている。その様子はまさしく宝石箱のようだ。
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中央の不空検索観音は天平時代に作られた高さ362センチのもの立像で全身に貼られた金箔と一点から放射される光を表す光背とによって、光の中心に立つさまが強調されている。
頭上には宝石で装飾された冠がある。昔、像の解体修理中に冠だけが博物館に出品されでごく間近に見たことがあるが、実に見事なものだった。正面には放射状の光背を背負った一体の観音像が取り付けられ、本体は細かい金の細工がなされ、それに青や緑の勾玉が取り付けられていた。古墳から出土する古代の冠から連綿と続く歴史を感じさせるものだった。

戒壇院からやってくると、こちらの四天王はひどくコミカルな感じに見える。それでもじっと見ていると四天王ならではの力強さを感じてくるから不思議だ。

ここ数年、奈良県観光連盟が作っている奈良大和路カレンダーを取り寄せて、壁にかけている。写真は全部奈良の仏像で、ちょうど3・4月がここの伝・月光菩薩なのだった。
それで、ここに来たら改めて伝・月光菩薩をじっくり見てやろうと思っていたのだ。

「伝」と付いているのは寺伝では日光・月光菩薩なのだが、実際は違うといわれているためだ。日光・月光菩薩は薬師如来の脇侍であり、不空検索観音の脇侍として配されることはない。
それはさておき、この二体のうちの特に月光菩薩の美しさは堂内の仏像の中でも群を抜いている。
こちらも天平時代のもので塑像で作られ、もとは色が付いていたと思われるがその色も長い歳月で剥げ落ち、粘土そのものの白っぽい色が露出している。それが薄暗い堂内でほの白く輝き、あたかも朧月のようなのだ。
しかし、その顔には凛とした内からあふれ出す強い信念を見て取れる。鋭い視線で前を見つめる。そして力強い眼力に反して、その手はやわらかく胸の前でそっと合わせている。
同時代に作られた戒壇院の四天王像は憤怒の相をしているが、この日光・月光と顔の輪郭が似ている。実際はどうなのか知らないが、同じ作者または工房の作品なのではないかと思わせるものがある。
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法華堂のうち、仏像が安置されている正堂の部分は天平時代に建てられたもので、のちに鎌倉時代に礼堂が増設されている。この両者が破綻なくまとまっていて、建物そのものもまた美しい。


法華堂

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奈良へ(3):二月堂・お水取りの思い出

やがて二月堂の下にまでやってきた。
二月堂はお水取りの舞台となる建物だ。お水取りは正式には修二会という。
かつては旧暦の2月1日から14日まで行われた2月に修する法会なので修二会という。今は3月1日から行われている。

今までに2度、見に来たことがある。

最初に見に来たときは、登廊のすぐわきで見ていた。もう5,6年前のことだったろう。
その日の午後、東大寺境内の各お堂を見た後、19時に上堂開始と聞いていたので、いったん下におりて早めの晩御飯でも食べようか、と言っていたのが17時ごろだった。
しかし、人が続々と二月堂の方に向かって歩いていく。まさか、と思ってついて行くと既に二月堂の下にはそれなりの人数の人がシートを敷いたりして待っているではないか。
そのときに偶然にも確保したのが登廊のすぐわきの場所だった。
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やがて鐘が鳴る。その鐘はいつまでも鳴らされ続ける。鳴らされ続ける鐘の音によって二月堂の周囲は一種異様な雰囲気に包まれる。
登廊を炎が登っていく。長い竹の先につけられた松明が登っていくのだ。
松明は何本も上がっていき、そして舞台の上で振り回され、火の粉が下で見ている人々の頭上に降りかかる。

10本の松明が終わると、登廊を人が続々と登っていくのが見えた。東大寺の関係者か?と思ってみていたが、どうも普通の人らしい。
ああ、みんな上に登って行くのかと、われわれもあとについて登っていった。

お参りして帰っていく人もいるが、局と呼ばれる部屋に入っていく人もいる。
二月堂はその中心を内陣、外側を外陣、さらに外側に局という部屋がある。
一般人はその局で見る。外陣に入れるのは事前に許可を得た人(男性のみ)であるらしい。

中に入ってみた。
薄暗い中で格子の向こう側に影が動くのが見える。沓の音や経を唱える声が聞こえる。
その日は過去帳読み上げの日だった。
過去帳には東大寺ゆかりの人の名が書かれていて、それを厳かに読み上げる。

鎌倉時代のある年、過去帳を読み役が読んでいると、青い衣の女性が現れ、
「なぜ我が名を呼ばない」
と言って消えたため、とっさに「青衣の女人」と声をあげた。以来、過去帳には「青衣の女人」と記されるようになった、という話がある。
「青衣の女人」を読む時には声の調子を落として、より厳かな口調で言う。

その瞬間を聞いてみたいと思って、その日に行ったはずだったのだが、読み上げの時間がわからず、何も食べていなかったわれわれは空腹に耐えかね、1時間程度で切り上げ帰ってしまった。

その読み上げはのちに手に入れたCDで聞くことができたが、またいつか実際のを聞いてみたい気がする。
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二月堂

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奈良へ(2):大仏殿裏手の桜並木

戒壇院を出て東に向かうとすぐに大仏殿の横に出る。

桜の季節に奈良に来たことがなかったから、ここにこんなに桜があるなんてことは思いもしなかった。
戒壇院横の桜の木の下には何頭かの鹿が、散っていく花びらの下に埋もれるようにしてたたずんでいた。
鹿も桜の美しさがわかるのか。
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大仏殿の裏手の道を歩く。
大仏殿裏手の道は見事な桜並木が植えられ、風が吹くたびに花びらを散らしている。
散り際の桜こそ美しいと思う。
はらはらと音もなく散っている桜の花びらが切なく心に突き刺さってくる。
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そのまま進むとやがて二月堂に至るが、その手前の道の様子がまたいい。
写真家・入江泰吉など多くの人がここの景色を絶賛してきた。
必ずひとりかふたりの絵を描いている人がいる場所だ。
周囲を古い土塀に囲まれた石畳の道はまるで中世に迷い込んだような気分にさせてくれる。
変わらずにいてくれることがうれしい。

やがて視線の先に二月堂の懸造りの建物が見えてくる。


東大寺裏手の桜並木

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奈良へ(1):東大寺戒壇院の四天王

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近鉄奈良駅を降りたわれわれは、まっすぐに東大寺に向かった。久々に訪れた奈良でどうしても会いたかった仏像がいる。それが東大寺戒壇院の四天王だ。東大寺といえば大仏だが、今回はそちらは敢えて無視し、中世を思わせる住宅に挟まれた小道を歩いて戒壇院に向かう。
やがて石段の先に建つ戒壇院の建物が見えてきた。散り初めの桜が花びらを石段の上にはらはらと落としている。
東京は桜もすっかり散っていたので、奈良でまだ桜が咲いているのは意外だった。

お堂の中に、以前と変わらない姿の四天王が戒壇の四隅に立っていた。持国天、増長天、広目天、多聞天の4体だ。

ここに来るのは最初の本を作ったとき以来だと思うので、もう4年以上もの歳月が経っている。

この四天王は天平時代に作られて以来、仏法を守護すべく1200年以上の間立っている。
彼らにとっては4年などほんの一瞬の出来事にしか過ぎないだろう。
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増長天は右手に矛を持ち、左手を腰に当てて口を開けて怒号を発している。
持国天は剣を手に持ち目を見開いて敵を威嚇する。
広目天は手に筆と巻物を持ち、目を細めて遠くを見据えている。
多聞天は右手に宝塔を載せ、上に捧げ持つ。

記憶の中ではもっと筋骨隆々な体格で、もっと激しい動きを表現しているようなイメージがあった。
しかし、実物は4体のどれも細身でスリムな体付きをしているし、ずっと動きも少ない。
実物から離れてみると、再び自分の頭の中でどんどん体に筋肉が付き、どんどん激しく動いていく。

彼らが内に秘めた怒りは静の中に激しい動を生み出している。

東大寺戒壇院


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