諏訪湖の神々をたどる

諏訪湖の神々をたどる(9)

諏訪大社の下社・秋宮を出て国道20号をまっすぐ行くと、大門通りという道に交わる。この交差点の大門通り側に大きな鳥居が立っているが、これが春宮の鳥居で、これをくぐってまっすぐ行ったところに春宮がある。

その道の途中には、太鼓橋があって車はこの橋をよけながら通っている。この太鼓橋を下馬橋といい、たとえ大名であっても下馬し、歩いて通らないといけなかったためにこのように呼ばれる。下社ではもっとも古い構造物とされる。
現在は年に2度、神様が乗った神輿が通る神様だけのための橋だ。その神様の橋を車が邪魔そうによけながら走っている。かつては人間がもっとも恐れ敬った神という存在もいまや邪魔扱いされているような感じで、今の神様も大変だ。

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幣拝殿の向こう側にはなにごとのおわすのだろうか

春宮の境内の建物の配置は秋宮とほとんど同じで、出雲大社風の巨大注連縄のある神楽殿があり、その背後には幣拝殿が配置される。幣拝殿は秋宮と同じ図面で建てられたというもので、秋宮と春宮でその技術を競ったのだという。秋宮は立川流棟梁・立川和四郎富棟、春宮は地元の宮大工・柴宮(伊藤)長左衛門の手による。両者を見比べると波模様の彫刻の繊細さやダイナミックさの点などでは秋宮の方が数段上と言えるが、それ以外では決して負けてはいない。

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幣拝殿の柱に取り付けられた獅子像

春宮の境内を出て少し行くと万治の石仏という不思議な形の石仏がある。この仏にはこんないわれがある。
春宮に石の大鳥居を造る時に、いまは石仏となっているこの石を加工しようとノミを入れると、傷口から血が流れ出したため、石工たちが恐れをなして仕事をやめた。その夜、石工の夢枕で上原山にいい石があると告げられ、翌朝行ってみるとそこに夢の通りの石があり、無事に鳥居を完成させることができた。そこで石工たちはこの石に阿弥陀如来を祀った、というものだ。

この話を知って想像するに、当時はまだ磐座(いわくら)信仰の名残が色濃く残っていて、この石も磐座として信仰されていた石だったことを知らずに石工がノミを入れてしまい、あとからそれを聞いた石工たちが恐れ、これを阿弥陀如来とした、ということではないだろうか、と思った。とにかく彫るべきではないとされた石だったのだろう。

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万治の石仏

正面には袈裟と腕の模様が彫られているが、血が出たことで恐れたという石を彫るわけがないから、これは上から貼り付けたのだろう。

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後から見るとこうなっている

岡本太郎がこれを見て感激したとかで、直筆の石碑も近くに立っていた。

諏訪大社下社春宮

(諏訪湖の神々をたどる。おしまい)

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諏訪湖の神々をたどる(8)

冬季に諏訪湖が氷結したときに一直線の氷のせり上がりができることがある。これを御神渡り(おみわたり)といい、上社の男神、建御名方命(たけみなかたのみこと)が、下社の女神、八坂刀売命(やさかとめのみこと)に会いに行った跡だと言われている。

建御名方命であれば、上社・本宮から下社へは諏訪湖の上を通ればいいのだが、そうではない下々の人間であるわれわれは諏訪湖の周囲を迂回して下社へと向かう。

下社は春宮と秋宮に分かれている。
春宮には2月から7月まで、秋宮には8月から翌1月までの間、ご神体が祀られる。

日本の各地にあったことだが、春先に山の神様を里にお迎えして、稲に生育の力を付けてもらい、秋の収穫とともに山に御帰りいただいて、来年の春先に再び生まれ変わった新たな神をお迎えするという1年のサイクルがあった。
下社をそれにあてはめるとすると春宮が里の、秋宮が山の神社であると考えられる。

まずは今現在、ご神体のある秋宮に参ることにした。

上社とはずいぶん雰囲気が違う。
神楽殿には出雲大社とそっくりの太い注連縄がかけられている。出雲から諏訪に追われてきた建御名方命の話が書かれる古事記の記述を思い出させる。

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出雲大社風注連縄のかかる神楽殿

神楽殿の向こうには御幣を奉ずる幣殿と拝殿が一体になった幣拝殿という建物が建つ。二重楼門造りの建物で周囲には彫刻が施されている。この建物が江戸時代のものだということは、過剰とも思える彫刻によってすぐにわかる。激しくしぶきをあげる波の模様までもが歌舞伎の見得を思わせるオーバーアクションで彫り込まれている。

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江戸時代に建てられた幣拝殿

境内末社のひとつに子安社というのがある。御祭神は高志沼河比売神(こしのぬなかわひめのかみ)で、建御名方命の母とされる。安産の神として、底を抜いたひしゃくを奉納して安産を祈願する。底を抜いたひしゃくが水を貯めないように、子も滞らずに楽に産めるようにとの願いを込められる。

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底を抜いたひしゃくが奉納される子安社

諏訪大社下社秋宮


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諏訪湖の神々をたどる(7)

諏訪大社・上社本宮。
建物の配置を見るとこの神社がたどってきたであろう複雑な歴史を感じる。

境内の案内図を見ると南側に神体山と書かれた山がある。神体山であれば三輪山の大神神社のように、これを遥拝するために拝殿が建てられてもよさそうなものだが、この神社はそうなっていない。それどころか、神体山にそっぽを向くように真横を向いて拝殿が建てられている。拝殿の背後には神居の森があって、さらにその先は元宮がある。参拝者は斎庭の手前にある参拝所から拝殿を通して参拝するため、山に対して意識を払うことはない。

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諏訪大社・上社本宮拝殿

さらに拝殿の横の山側には硯石と呼ばれる磐座(いわくら)がある。それは斎庭(ゆにわ)の囲いの外にあり、一般の人間にはその姿を見ることができない。硯石は斎庭を通して反対側にある四足門という門が、その正面に立てられているため、その場所を知ることができるだけだ。
原初の時代は神体山と硯石という磐座を遥拝していたはずだ。それがあとから入ってきた神によって遥拝する先が直角に変えられてしまったということなのだろう。
四足門から古代の神が降る磐座に向かって参拝する人と参拝所から今の神の坐す神居の森に向かって参拝する人の視線はちょうど斎庭の真ん中で交差する。ここに何か深い意味があるのかもしれない。

もう1つ気になることがある。宝物殿の背後の山側には建物に隠されるようにして小さな祠があるのだ。はたしてこれはなんだろうか。大きな木の根元にあることからご神木を祀っているのかと思えるが、宝物殿の後に隠されているようにしてあるのはたまたまだろうか。(今回は疑問形のままで終わることにする)

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宝物殿背後の祠

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東参道の鳥居


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諏訪湖の神々をたどる(6)

神長官守矢資料館のすぐそばに、御頭御社宮司(おんとうミシャグジ)総社と呼ばれる小さな祠が建っている。ここはつまり、神長守矢家の敷地内であり、守矢家では大事な行事があるごとにここで厳かに拍手を打っていたということが、『神長官守矢資料館のしおり』において第78代を継承した早苗氏の文章に書かれている。

実は前回、神長官守矢資料館を訪れた時に、今は東京で教師をやっていらっしゃるという早苗氏がいらしていたときで、われわれもそのツレと思われ、タダで入れてもらいそうになったことがある。(もちろんちゃんと入場料は払った。だいたい一人100円だし)
一子相伝で伝わってきた祈祷の方法なども早苗氏の祖父が77代でこのときには既に一部のみしか伝授されていなかったという。78代に至っては何も伝わっていないということが、ご本人の手によって『神長官守矢資料館のしおり』に書かれている。

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御頭御社宮司総社。境内には2本の梶の木とカヤ、クリの巨木が立っている。

御頭御社宮司総社のすぐ近くには大祝(おおほうり)家のお墓がある。周囲には塀など区切るものは何もない。
この家の人は亡くなると神様になるとみえて、墓碑には皆、名前の下に命(みこと)という字が付けられていた。
この場所にあるということは、墓守は守矢家が行っているのだろうか。

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大祝諏訪家のお墓


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諏訪湖の神々をたどる(5)

諏訪大社上社・前宮と本宮のちょうど中間点に、神長守矢家がある。神長守矢と書かれた表札のある門を入ると左手に、祈祷殿がある。神長守矢はこの祈祷殿に篭って一子相伝で伝わってきた祈祷法で祈祷を行った。

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神長守矢家祈祷殿

この先にあるのが、神長官守矢資料館だ。ここに守矢家が取り仕切ってきた神事や伝わってきた道具などが展示されている。前宮・十間廊で行われる御頭祭に出される贄としての鹿の首やウサギの串刺し、そして料理と言っていいのか、鹿の脳と肉の和え物、イノシシや鹿の皮焼きなどが展示される。

御柱祭のときに、見立てをした木に打ち込んでご神木になったことを表す薙鎌、そして守矢家に伝わる筒型のサナギ鈴など神事に使われる道具も展示されている。

この建物はこの土地の出身で建築史家の藤森照信氏の設計による。
このいきさつについてはご本人の著書タンポポ・ハウスのできるまでに詳しく書かれている。タンポポ・ハウスとはご本人が自ら設計して建てた家で屋根にタンポポが植わっているというものだが、その中で自身の家を建てる前に、依頼されて設計した神長官守矢資料館のことが書かれている。

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藤森氏設計の神長官守矢資料館正面

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神長官守矢資料館遠景

以前、ここに来たときに、ここの歴史とこの建物の両方に興味があるということを資料館の人に言ったところ、藤森氏がつい最近も会議でここに来ていたことや、屋根を葺くのに使った鉄平石を見せてくれて、持たせてもらったりした。そして、ここからすぐ近くに藤森氏が面白い茶室を建てたことを聞いて見に行った。何かの雑誌でそのことは知っていたのだが、それがここにあることはそのときは知らなかった。
木の上にある茶室。

今回も見に行った。
鬼太郎でも出てきそうな茶室。無事に木の上にあった。

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藤森氏設計の茶室

神長官守矢資料館


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諏訪湖の神々をたどる(4)

諏訪大社でもっとも有名な祭といえば御柱祭だろう。7年に一度の寅年か申年に行われるこの祭は、山から切り出したモミの大木を里まで曳きだし、諏訪大社の四社を中心としたそれぞれの社の四隅に柱を立てるというものだ。上社は川越し、下社は木落としがそれぞれ最大のクライマックスとなる。

当然、ここ上社前宮の四隅にも御柱が立っている。前回、平成16年に立てられたもので、上社綱置場から20数キロの行程を数千人の氏子によって曳かれて来た。

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前宮・一之御柱

御柱は諏訪大社四社に限らず小さな祠にまでも律儀に立てられている。

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神長官守矢資料館そばにあった祠。きちんと四隅に小さな御柱が立てられている。


前宮社殿の脇にはきれいな湧き水が流れている。水眼(すいが)と呼ばれる名水で、社殿背後の山から湧き出し、前宮神域を通る御手洗川となる。中世においてはここに精進屋が建てられ、神官が身を清めた。

手ですくって口に含んでみると甘みのあるおいしい水だった。

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社殿脇の湧き水

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前宮・社殿


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諏訪湖の神々をたどる(3)

前回書いた穴巣始が終わると、春の祭りとして御頭祭が始まる。かつては旧暦3月酉の日に行われたため、酉の祭とも呼ばれる。この祭りは、上社・前宮の十間廊(じっけんろう)という細長い建物で執り行われる。

御頭祭は、その名のとおり、動物の頭が贄として神に捧げられる。江戸時代にこの祭りを見た菅江真澄という人がスケッチ付きでその様子を書き残している。それによると、十間廊には75の鹿の頭が真名板の上に置かれて並べられ、その中には耳の避けた鹿があった。この鹿は神様が矛で採ったものだという。必ず耳の裂けた鹿が混ざっていることは、諏訪の七不思議にも数えられている。他に串刺しにされた白兎、白鷺、山鳥、フナ、ブリなどが奉ぜられた。
そして、大祝(おおほうり)や神官らは神酒を酌み交わし、神に供えた供物を神とともに食べる直会(なおらい)が行われた。

しばらくすると、御杖または御贄柱と呼ばれる柱が立てられ、御神(おこう)と呼ばれる8歳くらいの紅の着物を着た子供を柱とともに押し上げ、縄で縛り付ける。御神(おこう)はかつては贄として殺された、ということが『神長官守矢資料館のしおり』に書かれている。

鹿の頭もいまは剥製が数頭供えられるだけとなっているが、かつては祭りのたびに実際に鹿を捕らえて首を供えた。

なんて馬鹿なことをしていたのか、と思う人もあるかもしれないが、これはかつての人々がいかに生きるのに真剣で、必死だったかということの裏返しではないかと思う。
人がかつて自然の中で小さく生きていたころ、巨大な神の力に対して平伏し、あがめたたえることで、力を分け与えてもらった。それがこの壮絶な祭に反映されている。

これらの供物は神長官守矢資料館に再現されたものが展示されている。多くの鹿の頭、串刺しの白兎、能和えなどが展示され、かつて命あったものたちの姿に圧倒される。

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磨り減った石段を登ると十間廊がある。

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注連縄が取り回されている十間廊。

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神長官守矢資料館に展示される鹿の首。


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諏訪湖の神々をたどる(2)

諏訪湖の周囲には4つの諏訪大社がある。上社と下社に分かれ、そのうち上社は前宮と本宮、下社は春宮と秋宮に分かれている。

上社・前宮は中でももっとも古い祭祀の跡を残す場所である。
四社の中では諏訪湖から一番離れた場所にあり、守屋山を背に八ヶ岳の方向を向いている。

前宮を訪れる人はあまりおらず、いつ行っても静かなたたずまいを見せてくれる。
ここにいると古代の人々が肌で感じていた神の存在が実感としてわかる気がする。木や石に宿る神というか精霊の存在のことだ。この場所は人が神との交感を行うにもっともふさわしい何かを感じて探しだされたのだろう。その何かが現代人の自分にも伝わってくる。

前回書いた神長守矢氏はミシャグジと呼ばれる神を信仰していた。この神を守矢氏が木や笹、石、あるいは、現人神である大祝(おおほうり)に降ろし、神の声を聞いた。

ミシャグジ神は祟りなす神でもあった。精進潔斎すべき場に穢れがあった場合、一族から家に飼う犬や鳥にまで祟りが下るとされた非常に厳しい神である。

諏訪大社は神事の数が非常に多いことでも知られている。
その中に穴巣始(あなすはじめ)という冬ごもりの神事がある。ここ前宮に御室とよばれる半地下式の土室が作られ、旧暦12月22日になると大祝、神長、6人の幼童による神使(おこう)らが蛇体とともに篭った。この蛇体がミシャグジ神といわれる。そして、翌年3月中旬の寅の日までミシャグジ神とともに過ごし神事を行った。

冬眠する蛇とともに冬ごもりし、春になると地上に出てくるのである。春まで篭ることによって、春の息吹に宿る神の力を身につけるという意味があるのだろう。
非常に古い形態の神事であるが、残念ながら中世には断絶してしまっていたようである。


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諏訪大社・前宮の鳥居

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穴巣始が行われた御室社

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神紋は梶の葉

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境内に梶の木が植えられていた


諏訪大社上社前宮

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諏訪湖の神々をたどる(1)

長野県に諏訪湖という大きな湖がある。八ヶ岳など2000メートル級の山々に囲まれたこの地はよほど住みやすかったのか、尖石遺跡、棚畑遺跡など縄文時代の遺跡が多く見つかっていて、古くから人が多く住んでいたことがわかってる。このうち、棚畑遺跡は縄文のビーナスと呼ばれる妊婦姿の土偶が見つかっていることでも知られている。

あるとき、この地の先住民にとって衝撃的な事件が起こる。いわゆる出雲の国譲りの余波が遠く諏訪の地を襲ったのである。
『古事記』の「葦原中国平定」に書かれているが、高天原の天照大神が葦原中国、すなわち出雲を自分の子が統治すべき地としたいとし、高天原からいろいろな神々を派遣して大国主命に対して国譲りを迫った。しかしなかなかうまくいかず、最後には建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)を遣わし、国譲りに反対した大国主命の子、建御名方神(たけみなかたのかみ)と戦い、建御名方神は科野国(しなののくに)の州羽(すは)の海に逃げ込んだ。

こうして高天原、すなわち大和朝廷は出雲を手に入れるが、建御名方神が逃げ込んだ諏訪はどうなったか。

出雲から逃げてきた建御名方神は今度は諏訪の先住民にとっては侵入者となり、戦いが起こるのである。
古事記にはここから先の話は一切書かれていないが、地元に残される『諏方大明神画詞(すわだいみょうじんえことば)』にこの両者の戦いの様子が描かれているということが、茅野市神長官守矢資料館発行の『神長官守矢資料館のしおり』に書かれている。
それによれば、洩矢神(もりやのかみ)を長とする先住民は、天竜川河口に陣取って建御名方神を迎え撃った。洩矢神は鉄の輪(かぎ)を手に掲げ、建御名方神は藤の蔓を手にして戦うが、洩矢神の敗北に終わった。

その結果、建御名方神はいまの諏訪大社の神となる。
その後、建御名方神の子孫の諏訪氏は大祝(おおほうり)という現人神(あらひとがみ)の位となり、洩矢神の子孫の守矢氏は神長という筆頭神官の地位に着く。
大祝は『神長官守矢資料館のしおり』によれば、諏訪明神が桓武天皇の皇子有員親王に神衣を着せて「我に体なし、祝(ほうり)をもって体とす」と神勅をくだしたのが始まりとされる。大祝は代々諏訪氏の8歳から15歳までの男児の中から選び、その職にしたという。
神長となった守矢氏は一切の神事を取り仕切り、神降ろしなど神との交信する力は代々守矢氏だけが持っているとされた。

侵略された側である守矢氏であるが、両者は共存する道を歩むこととなった。

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