湖東三山の秘仏に会う

湖東三山の秘仏に会う(10)

湖東三山のもっとも北にある西明寺。本尊は薬師如来だ。

門をくぐると再び長い坂道を登る。夏場なら大汗をかいているところだ。
参道の途中の下を高速道路が走っていた。両側は石垣まで組まれていて雰囲気が壊れないようになっている。

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下を高速道路が走っている。

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長い坂道をひたすら登る。

金剛輪寺では風車の地蔵に迎えられたが、ここは苔が特徴だ。きれいな苔がいたるところに生えている。

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木漏れ日に輝く苔。

やがてわらじのかかる二天門に到着。門でが持国夫、増長天が警備している。

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二天門。

本堂では寺の人が説明をしてくれた。
説明のおじさんは、本堂は飛騨の匠が釘を使わずに建てたことや、本尊の薬師如来、そして両側の日光・月光菩薩、十二神将について、手に持った懐中電灯で器用に照らしながら話をしてくれた。十二神将の頭にはそれぞれ干支の動物が載っていて、小さなものなのにおじさんはひとつひとつ懐中電灯で光を当てながら説明をしていた。その説明の手際のよさと懐中電灯を適切に当てられるこのおじさんの職人技にも感動した。
端の両側には多聞天、広目天が邪気を踏み潰して立っている。二天門に持国夫、増長天がいるから、それと合わせて大きな空間を守護しているのだろうか。

秘仏の薬師如来はひきしまった厳しい表情をしてわれわれ衆生を見下ろしている。厳しい顔は神護寺の薬師如来を思い出させる。

おじさんは、最後に「後戸(うしろど)にも仏さんがいらっしゃいますから拝んでいってください」、と言った。後戸という言葉は、一般にはあまり使わないと思うが、仏堂の背後の空間のことだ。後戸という言葉を、この人、当たり前のように言ったな、とそのときひそかに感動した。
仏堂にとって後戸は特別な意味を持つ空間であり、そこに特殊な神仏を祀ったりした。『異神』(上)にも書かれている。

裏に回るとそこにも仏像がたくさん居並んでいた。特に後戸というほどの特別な場というよりは、置ききれない仏像をそこに置いているだけのようでもあった。

本堂そばには三重塔が立つ。それぞれの屋根のきっさきが飛び立つ鳥の翼のように大きく跳ね上がる軽やかな塔だ。初層には大日如来が安置され、壁には一面に仏画が極彩色に描かれているらしいが、この日は公開されていなかった。

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三重塔。

その日のうちに東京まで帰らなければならないわれわれは庭園のようないつでも見られるところは見ずに山を降り、門前の蕎麦屋で遅い昼食を取ってから、彦根ICから高速に乗り、東を目指した。

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高速道路走行中にツレが撮影した夕焼け。

「湖東三山の秘仏に会う」おしまい。

西明寺


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湖東三山の秘仏に会う(9)

続いて金剛輪寺へ。湖東三山の3つ並んでいるお寺のうちのちょうど真ん中にあたる。
こちらで公開されている秘仏は聖観音だ。

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金剛輪寺の門。聖観音の提灯が下がる。

また長い長い上り坂を登っていく。その両脇にはびっしりと石の地蔵が並ぶ。すべての地蔵の前には風車が添えられ、時折勢い良く回っていた。不思議なことに特定の地蔵の風車だけが勢い良く回っていても、その隣はまったく回ってないというのをいくつか見た。何かが宿っているのではないかと思いたくなってくる。

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びっしりと並ぶ地蔵菩薩。

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すべての地蔵には風車が供えられている。

ひたすら登っていくと百済寺と同じようにわらじのかかる門が見えてくる。

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わらじにはびっしりと1円玉がはめ込まれていた。

門をくぐると本堂。ここで本尊の聖観音が公開されている。
この像は行基菩薩が造ったとされるもので、彫っている最中に木肌から一筋の血が流れ落ちたことから「生身(なまみ)の観音」と呼ばれている。

本堂、中央に金色の小さな観音像が立っている。これがお前立ちで、その後に秘仏の聖観音が開いた厨子の中で立っている。伝説の通りの荒削りの体は見えたが、厨子の中は影になってしまってそのお顔はよく見えない。

本堂からすこしあがったところには三重塔が建つ。重厚すぎず、かといって軽すぎもしない姿のいい塔で、大日如来が安置されていた。

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木々の間から姿を見せる三重塔。

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坂の途中には現役を引退した手押しポンプが置かれていた。

金剛輪寺


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湖東三山の秘仏に会う(8)

前日、九州で列車を横倒しにし、家を破壊した強力な台風は日本海側に抜けていった。予報ではその日は曇り時々雨だったが、朝には日が差していた。

今日は、いよいよ湖東三山に向かう。まずは百済寺へ。台風の進路によってはこの日、直撃を受けていたかもしれなかったが、台風が近くにいたという気配さえ感じないようないい天気になった。

朝10時少し前に百済寺の駐車場に着いたが、既に駐車場は8割程度埋まっていた。
そこから長い石段を登っていく。

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本堂へは長い長い石段を登っていく。

百済寺は聖徳太子の御願によって百済人のために創建された古刹で、本尊は太子自作の植木の観音であったと伝えられる。その後、比叡山延暦寺の勢力下に入って天台宗の寺院となり、そのときに百済(くだら)寺から百済(ひゃくさい)寺に変わったという。

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長い長い石段をひたすらに。

石垣に囲まれた石段を登っていく。まるで山城のようだ。中世には山一帯に堂宇が立ち並び、「湖東の小叡山」と呼ばれるほどの大きな規模の寺院となった。かつては比叡山同様に僧兵も大勢いたのかもしれない。
しかし、1573年には織田信長の焼き討ちに会い、多くの堂宇を失った。

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やがて巨大わらじのかかる仁王門が。

石段を登っていくとやがて大きなわらじがかかる仁王門が見えてくる。さらに少し登ったところでようやく本堂に到着。中に入ると読経の声が聞こえ、大勢の人が静かに見守っていた。中央には扉の閉じた厨子がある。今日からの公開で、ちょうど御開帳のための読経の最中のようだ。お経の声に混ざって外から入ってくるせみの声を聞きながら待つ。

やがて口にマスクをした僧侶が立ち上がって、厨子を開ける。秘仏本尊・十一面観音の55年ぶりの御開帳だ。
扉が開いた瞬間、隙間から金色が見えた。開くにつれてその姿が見えてきた。

胴体に比べて顔は非常に小さく、下に降ろした手はちょっと平面的に胴体にくっついていて、あきらかに一本の木を彫り出して造った一木造の像という感じだ。目測をあやまって顔が小さくなってしまったのだろう。十一面の頭の部分があることを忘れて木を切ってしまったのか、あるいはあとから十一面にしたのかもしれない。

口元は、ああ、明らかに微笑んでいるではないか。楽しげに口元をすぼめて微笑んでいる。
55年ぶりの御開帳を自ら喜んでいるかのように、柔和な笑みを浮かべている。見ているこちらも幸せな気持ちになってくる。

御開帳の瞬間に出会えたのは初めての経験で、その上、このような幸せなお顔の像に出会えるとは。しみじみとここまで来て良かったと思った。

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小野道風筆とされる「下乗」の文字。

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喜見院の庭園。

百済寺


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湖東三山の秘仏に会う(7)

琵琶湖に沿って走る国道161号線を北上していくとやがて湖上に鳥居が見えてきた。これが見たかった白鬚神社の鳥居だ。
道路からすぐのところを山がせりあがっている。この山は岳山といい、比良連峰のひとつだ。

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湖上に浮かぶ白鬚神社の鳥居。

駐車場に車を置いて、はたしてこの神社はこの山を神体山として、湖上から鳥居を通して拝むのだろうか、それとも逆に琵琶湖を神として陸地から湖を拝むのだろうか、ということを考えていた。
少し登ったところに社殿がいくつかある。山を神とするならあれが本殿か、と思って登ってみた。
そこの祀られていたのは高良社、八幡社、加茂社、伊勢神宮外宮、内宮とよその神様ばかりだった。
さらに奥にも社殿があるので行ってみた。こちらは稲荷社だった。

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道路からすぐのところを山がせりあがりその狭い敷地に神社はある。

その先は林となっている。日も暮れかけて暗くなってきた中で目を凝らすとその林の中にもなにやら社殿と注連縄の張られた大きな石がある。さてはあれは磐座かと行ってみると、社殿の方には岩戸社という額がかけられ、中を覗くと石棺のようなものがあった。この石棺を祀るために社殿を造ったらしい。
注連縄のある石は加工したあとのようなものも認められる。磐座というよりは、古代人が石棺を加工したときの残りか、造りかけのまま放置したものではないか、という気がする。

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岩戸社。中を覗くと石棺があった。

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注連縄のかけられる石。

下に降りてみると立派な建物があり、これがこの神社の本殿だった。大きすぎて気がつかなかった。豊臣秀頼、淀殿が建立し、のちに改築されたという本殿は拝殿と一体となった形式をしている。

あらためて拝殿で拝んだあと、立てられていた説明書きを読んでみた。そこには、白鬚神社はまたの名を比良明神ともいうと書かれている。とすれば、山の神であり、湖上から鳥居を通して山の神を拝したということになる。

日本ではしばしば神が白髭の老人の姿で現われる。能の翁もそうだし、この白鬚神社を題材とする「白鬚」にも老翁が出てくる。日本の神の古様を示す神社のひとつと言えるだろう。

その昔読んだ『近江山河抄』が本棚にあるのに気がついて、帰ってから読み返してみた。その中で白鬚神社のことも書かれていた。白洲さんはこの神社をどう書いているのかな、と思って読んでひっくり返った。

「白鬚神社は、街道とぎりぎりの所に社殿が建ち、鳥居は湖水の中にはみ出てしまっている。」

そうか。はみ出してるのか、あの鳥居は。
そういう発想はまったくなかった。さすがです、白洲さん。

白鬚神社

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湖東三山の秘仏に会う(6)

鮎料理という看板の文字に惹かれて松水という店で昼食。
琵琶湖ではたぶん有名な店なのだろう。ずいぶん待ってようやく席に案内された。

ここでは生きた鮎を自分で焼いて食べることができる。
希望すれば自分で池からすくったり釣ったりして、その場で焼くこともできる。

我々は活鮎の塩焼きコースにした。
鮎は口に串を差し込まれた状態で出てくる。これを自分で焼くのだ。

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焼く前の鮎。

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各テーブルにグリルが置かれている。

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こんがりと焼けた。

ありがたく命をいただく。
普段、スーパーで買う牛や豚や鳥の肉は解体された肉片となっているため、なかなか、その物体に命が宿っていたことを実感することはない。魚は原形をとどめていても、ずいぶん前に命を失った状態のものを買っている。
現代人は、自分が命を奪っている実感がない分、他の生き物によって自分が生かされているということを理解できなくなっていると思う。
この機会に改めてこれまで自分の血や肉になってくれた生き物達に感謝した。

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鮎寿司。

ツレが頭の部分は食べないほうがいいと警告したにもかかわらず、全部口に入れてしまい後悔した。
残しては犠牲になってくれた鮎たちに申し訳ないと思ったので。
しかし、そこは骨ばかりだった。

http://www.sho-sui.co.jp/

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湖東三山の秘仏に会う(5)

湖東三山とタイトルに書いておきながら相変わらず湖西をうろうろする我々であるが、もう少々お待ちいただきたい。

堅田を出てから国道161号線を琵琶湖の西岸沿いに北上するとやがて小野という交差点が出てくる。ここを斜め左に入っていくと小野神社がある。小野神社の小野とは小野妹子や小野篁、小野道風らを輩出した小野氏の氏神社であり、小野妹子が先祖を祀って創建したと伝わる。

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小野神社・社殿

ちなみに、ここをさらに北上するとすぐ和邇という地名がある。古代史に興味のある方ならすぐわかると思うが、小野、和邇のどちらも有力な豪族である。とにかくこの辺は古代史好きにとっては地名を見るだけで興奮させられる。

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頭に角のある狛犬

小野神社の祭神は、第五代天皇孝昭天皇の第一皇子、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)とその七世の孫、米餅搗大使主命(たがねつきのおおみみのみこと)であり、米餅搗大使主命は応神天皇の頃に日本で始めて餅をついたとされる人物だそうで、神社の前には餅の彫刻が置かれていた。

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おいしそうなお餅

小野神社の社のすぐ隣には小野篁神社の社が建つ。なぜかこちらの方が大きい。
小野篁は遣唐副使に任ぜられるが、正使藤原常嗣といさかいを起こし、病気と称して遣唐使行きを拒んだため、嵯峨上皇の怒りを買って隠岐に流された、という経歴の持ち主だ。

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篁神社

篁が隠岐に流されるときに歌ったのがこの歌だ。

わたの原 八十島かけて 漕ぎいでぬと 人にはつげよ あまのつり舟

この歌碑が境内に置かれていた。

篁には奇怪な伝説が多い。そのひとつに夜毎、井戸を通って地獄に通い、閻魔大王の補佐をしていたという話がある。地獄に入るときには京都・六波羅の六道珍皇寺の井戸から、地獄から戻るときには嵯峨の福正寺(いまは薬師寺となっている)の井戸を使ったという。福正寺の井戸は残っていないが、六道珍皇寺の井戸は今も残されている。

小野神社から少し離れたところには小野道風神社と小野妹子の墓とされる唐臼山古墳がある。そこには小野神社に車を置いて歩いて行った。住宅街を歩いていると途中に石神古墳群という説明板があった。古墳時代後半のもので、須恵器などが出ているという。このあたりは渡来人が多く住みついたところで、朝鮮半島の住居形式であるオンドルの遺跡も出ている。この古墳も須恵器が出ていることからすると渡来人のものだろうか。

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熊は困るな。熊は。

その古墳の説明板のところに何か紙が貼られていた。よくみると、熊に注意と書かれてある。
小野道風神社はここからさらに竹林と藪に挟まれた小道を歩いていかないといけないらしい。「ある日、森の中、くまさんに出会ーった」という能天気な童謡もあるが、現実の世界でそういう事態になったら命の保障はない。恐れをなした我々はここで引き返すことにした。

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小野神社には蛙が。小野道風は花札に柳に飛びつく蛙とともに描かれているが、小野道風神社にはいけなかったし、干からびぎみのこの蛙は柳に飛びつきそうもなかった。

小野神社

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湖東三山の秘仏に会う(4)

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伊豆神社鳥居

浮御堂を出たところに大きな白い石の鳥居が見えたので、行ってみた。伊豆神社という名の神社だった。
伊豆の名が示す通りにこの神社は三嶋明神を勧請したものだという。東国の神を関西に勧請してくるというのは珍しい。ならば、割と新しい神社か、と思うとそれがまた歴史が古く宇多天皇の時代の寛平4年(892)の創建ということだった。さらに、その後、山城加茂大神を勧請して、堅田大宮と称して、堅田全域の総鎮守となったと境内の説明書きに書かれる。

境内には伊豆神社霊石という石があった。かつては境内中央にあってこの石を信仰の対象として拝んだというから、磐座(いわくら)であろう。いまは境内の端の方に移されている。
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伊豆神社霊石

境内には末社として天満宮と年九大明神と書かれた稲荷神らしき神を祀る社(やしろ)があった。
天満宮には本家の北野天満宮のように、ちゃんと撫で牛も置かれている。昨日寄った御神神社にも天満宮が末社としてあった。このあたりで流行ったのだろうか。しかもどちらも末社という扱いである。

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境内にある天満宮。撫で牛も置かれる。

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年九大明神の社。小さいながら正一位とあって、相当な御神徳があらせられる模様。

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狭い路地を子供たちが保母さんに手をつながれて歩いていた。

伊豆神社

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湖東三山の秘仏に会う(3)

翌朝、200円払って琵琶湖大橋を渡り、湖西に出て堅田にある浮御堂に行った。
浮御堂は近江八景のひとつ「堅田の落雁」でも知られている。
近江八景は、近江に滞在した公卿の近衛政家がそれぞれの地について和歌を詠んだことが始まりと言われている。「堅田の落雁」の歌はこれ。

峯あまた越えて越路にまづ近き堅田になびき落つる雁がね

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浮御堂

浮御堂の建物で有名だが、寺の名を海門山満月寺といい、京都大徳寺に属するれっきとした禅寺である。
その昔、恵心僧都源信が建て、千体の阿弥陀仏を刻んで湖上の船の安全と衆生済度を発願したことに始まる。源信は特に地獄の様子を念入りに描写し、そして浄土思想の重要性を書いた『往生要集』の著者でもあり、また、源氏物語の横川の僧都も源信をモデルにしていると言われるほどに、有名な人物である。

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浮御堂から見た琵琶湖

琵琶湖に突き出した橋を渡り、浮御堂に行く。本当に千体あるのか知らないが、確かにたくさんの金色に輝く小さな阿弥陀如来像が陸地の側と湖面の側を向いて立っている。お堂からは遠く対岸の三上山などが見える。空気の透明度が良ければ、伊吹山も見えるようである。

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千体阿弥陀

陸地の側には観音堂があり、中には中央に聖観音坐像、両脇に薬師如来、十一面観音が安置されている。聖観音は厨子の中に収められその姿をじかに見ることはできないが、写真が置いてあった。バケツ、というと言葉が乱暴だが、そういう形のものをさかさまにしたよう冠を頭に載せている。平安時代の作で、なかなかいいお顔をしていらっしゃる。今度、じかにお目にかかりたいものだ。

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芭蕉の句碑。
 鎖あけて 月さし入れよ 浮御堂

シンプルでいて力強い芭蕉らしい一句。しびれるなり。

浮御堂

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湖東三山の秘仏に会う(2)

名神自動車道の竜王ICで降りたあと、ほどなくして国道8号線に入った。この道沿いには古い白壁の土蔵が建ち並んでいて、かつての美しかった日本の家並みを見ることができる。
あとで調べてみると、この道はかつての中山道であり、また近江商人発祥の地である近江八幡にも近いことから、このような家が建ち並んでいるようだ。途中には義経元服の地というのもあった。銅鐸博物館もあった。このあたりで銅鐸が大量に出ていて、それを展示している。行ってみたいと思っていたところだが、ここだったのか。天日槍を祀る鏡神社も近くにあったらしいが、どれも時間がないので、またいつか行くことを誓って通過した。

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御神神社鳥居

日が落ちる前に着いたら行きたいと思っていたところがある。三上山の麓にある御上神社だ。
三上山は近江富士とも呼ばれ、富士山型の美しいシルエットを持つ山で、神体山でもあった。境内の説明書きによれば、いまから2200年前の考霊天皇6年6月18日に、天照大神の孫である天之御影神が三上山に降臨したことから、御上祝(みかみのほうり)らがこの山を神体山として祀るようになった。その後、養老2年に麓の今の地に社殿を造営し、遷祀したという。
以来、三上山の磐座(いわくら)を奥宮とし、山麓の本宮を里宮として祀っている。磐座での神事は今も続き、6月18日の未明に行われる山上祭で神職が山に登り、山頂の磐座に神降ろしをするのだという。

御神神社に祀られる天之御影神は忌火神、金工鍛冶神、産業神、開運悪魔除けの神として信仰された。
上にも書いたように近くで大量の銅鐸が出土しているが、これを造った人々がこの神を崇拝したのではないだろうか。

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日露役記念と書かれた狛犬

三上山は俵藤太の百足退治でも知られる。俵藤太が瀬田の唐橋を渡ろうとしたときに琵琶湖の大蛇が出てきて、三上山の大ムカデのために一族が滅ぼされそうになっているので、退治して欲しいと訴えた。俵藤太は大蛇の巻き起こす水柱に乗って三上山の大ムカデを退治したという話だ。琵琶湖の勢力と三上山の勢力の対立を現した説話のようでもある。この話から三上山は百足山とも呼ばれる。

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拝殿と本殿。本殿は連子窓など仏堂的要素が取り入れられている。最近葺きかえられたらしい桧皮葺の屋根が美しい。

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本殿背後に扉が付けられ、ここから三上山を神体山として祀っているのだという。

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三上山(多分)

御神神社

(つづく)

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湖東三山の秘仏に会う(1)

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9月18日から湖東三山の秘仏公開が始まった。湖東三山とは琵琶湖の東側にある西明寺、金剛輪寺、百済寺の三寺のことをいう。
16日からの三連休を利用してこの秘仏たちに会いに行った。

秘仏公開は律儀なことに、三連休の初日でなく最後の月曜日から始まる。そのため三連休の初めの2日の予定を決めなければならない。どこに行こうか。琵琶湖の周辺には3年前に湖北に行って以来だ。やはり琵琶湖の周辺に行きたい。そう思って、自宅の本棚を見回しているときに目に入ったのが司馬さんの『街道をゆく』の「湖西のみち」だった。そうだ。湖西に行こう。琵琶湖に浮かぶ白鬚神社の鳥居も見たい。

三連休の初日、東名高速を西に向かって車を走らせた。東名高速から名神と名を変えた頃、平坦だった濃尾平野の先に、突如、横一列に並ぶ山塊が見えてくる。これが養老山地で、この山が見えてくるとようやく近江に来たという気になってくる。東から西に向かう昔の旅人はこの急激に立ち上がるこの山塊を見てため息をついたことだろう。養老山地を越えると今度は鈴鹿山脈が待ち構えている。古代においては鈴鹿の関も置かれ、物理的にも人為的にも通るのが難しい場所だった。

現代人はそんな場所も高速道路で簡単に移動できる。やがて右手に伊吹山も見えてくる。ヤマトタケルノミコトを死に至らしめた神の山もいまや、このあたりの人にとってはスキーやハイキングの山というイメージの方が強いかもしれない。しかし、この日、山頂付近を雲で覆われた伊吹山は神々しく、やはり私には神の山に見えた。

このあたりは高速道路の地名も古びていて良い。養老、秦荘、竜王、菩提寺。まるで古代の絵巻物でも見ているような地名が並ぶ。
夕方、現地に到着。宿は2日とも湖東にとってあった。今日の宿に一番近いのは栗東インターチェンジで、その手前には竜王という名のインターチェンジがある。栗東で降りようとしたのに、竜王に導かれたのか手前の竜王で降りてしまった。

降りてすぐの交差点の名は「薬師」だった。近くに薬師堂でもあるのだろう。竜王はこれを見せたかったのか。そういえば、以前湖北を廻ったときには、渡岸寺のそばに「十一面観世音菩薩」という名の交差点があって仰天したことがあったっけ。
これらは長く日本人が信仰の世界に生きてきたことの証しであり、ここにはそうした姿が今も現在進行形として生きている。田園風景といい、ここには失われたかつての日本の多くが残っているのがうれしい。

(つづく)

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